ポスト・サマー・オブ・ラブとクーム・トランスミッションズ

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    ポスト・サマー・オブ・ラブとクーム・トランスミッションズ

     

    1975年に誕生したロンドン・パンク・ムーブメント。しかし約2年あまりでパンクの初期衝動は資本システムに吸収され自己パロディの無限ループ状態に陥ることとなる。

     

    誰もがパンクの敗北に気がつきはじめた1977年、「Industrial Music For Industrial People(工場生活者のための工場音楽」なるスローガンのもと、ポスト・パンクの最果てよりひとつの「アンチ・ミュージック」なムーブメントが狼煙を上げる。インダストリアル・ミュージックの誕生である。

     

    狼煙の発火点となったのは1975年より1981年までの6年間、インダストリアル・ミュージック黎明期を牽引し続けたスロッビング・グリッスル(以下TG)。先のスローガンは1977年に発表された1stアルバム”The Second Annual Report”に記載されていたものだ(注1)。

     

    インダストリアル・ミュージックがやがてホワイトハウスなど次世代に継承され、ノイズ・ミュージックというマニアックなジャンルを確立したように、TGもまたノイズ・ミュージックのオリジネーターとして現在認知されている。

     

    しかしTG、とりわけ中心人物のジェネシス・P・オリッジに目を向けると、ノイズ・ミュージックのオリジネーターという肩書きは正直微妙だ。そもそもジェネシスはホワイトハウスを筆頭とするノイズ・ミュージックには否定的な立場だったし、彼が目指したのはあくまでも60’sカウンター・カルチャーのネクスト・ステップだった。

     

    ここではそんなジェネシスの精神的ルーツを、TGの前身グループであるクーム・トランスミッションズの活動を通して考察してみたい。

     

    英国東海岸のハル大学にて、ジェネシス(当時は本名のニール・メグソン名義)によってクーム・トランスミッションズが組織されたのは196912月。米国でチャールス・マンソン・ファミリーによるシャロン・テート殺害事件(注2)やオルタモントの悲劇(注3)などによりサマー・オブ・ラブの終焉が決定付けられながらも、未だアシッドの二日酔いが色濃く残る季節のことであった。

     

    クームの初期活動はダダやフルクサス運動(注4)に強い影響を受けたパフォーマンスであったという。ハル大学周辺のパブで催された彼らのパフォーマンスは、壊れたヴァイオリンやギター、プリペアード・ピアノ、ボンゴなどによる即興演奏と演劇をミックスしたもので、その過剰なハプニング主義により度々警察沙汰に発展。それでもクームは「未来の音楽は非音楽家にあり」をモットーに、7110月には英スペース・ロック代表バンド、ホークウィンドの前座にまで抜擢されるなど確実にキャリアを積み重ねていく。

     

    クームの音楽面に目を向けると、そのフリーキーな構成に後のTGの影を無理矢理見ようとすれば不可能でもないが、やはり印象としてはフルクサスにフリー・ロック的エッセンスをボンヤリと加味したスタイルだ。少なくともこの音楽面においてはインダストリアルやノイズといった要素は希薄であり、このことはジェネシスのルーツを知るうえでも実に興味深い傾向といえよう。

     

    一方クームのパフォーマンス方面では前述の初期ダダ&フルクサス的影響に加えて、1972年ころよりオットー・ミュール(注5)に代表されるウィーン・アクショニズム色も大胆に導入されるようになる。

     

    この頃よりクームのパフォーマンスは、ジェネシス、そして家出娘として初期より参加していたコージー・ファニ・トゥッティを中心に、エネマ・プレイやオージー・セックス、自傷行為や自慰行為、そしてアレイスター・クロウリーの性魔術実践を彷彿とさせる性的ショック路線に舵が切られ始める。

     

    その結果として地元警察との軋轢が拡大し、ハルでの活動が完全に不可能になったクームは1973年末より活動の場をロンドンのイーストエンドの廃工場地下へと(スクウォットで)移動させる。このロンドンでジェネシスは同年ウィリアム・S・バロウズとブライオン・ガイシンに出会い、その神秘主義的思想に大いなる影響を受ける。

     

    1974年にはクームの性的ショック路線に強い興味を持ったピーター・クリストファーソン(注6)がメンバーに加入。さらに1975年にはタンジェリン・ドリームとシンセサイザーにのめり込んでいた電気技師、クリス・カーターが加入。このクリスの加入によりクームの音楽制作にエレクトロニクス革命が発生し、TG誕生へと繋がることとなる。

     

    TG誕生は197593日。英国が第二次世界大戦参戦した36周年日を記念したものだという。当初はクーム組織内グループとして音響実験(特定の周波数を大音量で人体に投射するとどのようなダメージをもたらすのかなど)をアンダーグラウンドに行うものだったが、197610月ロンドンICAで開催されたクームの悪名高き展覧会「売春展」(注7)オープニング・パーティーで初の公式パフォーマンスを披露しデビューを飾った。

     

    以降ジェネシスはクームとしてアート・シーンに留まることよりも、TGとしてポップ・カルチャーに打って出ることを選択。この選択によりインダストリアル・ムーブメントが幕を開けたのは前述の通りである。

     

    以上のようにサマー・オブ・ラブの残骸からダダ、フルクサス、ウィーン・アクショニズム、バロウズを経由してTGに辿り着くジェネシスだが、一貫して確認されるのが「脱コントロール」に対する彼の飽くなき探求であろう。それはクーム以前ジェネシスがハイティーン時代に加入していたコミューン「トランスメディア・エクスプレーションズ(注8)」における、アートと心理学をミックスさせた共同生活から端を発し、われわれが「当たり前のこと」として受容してしまっている固定概念や行動様式を根底から無効化する闘争の歴史であった。

     

    TG本格始動後もメンバーに寝食をともにする集団生活を半ば強制したジェネシスの姿勢は、サマー・オブ・ラブ崩壊後のニューエイジ運動が辿った人間性回復運動やトランスパーソナル心理学にも通じるサイケデリック・セラピー要素が見て取れるし、一方では(これまたジェネシスに多大な影響を及ぼす)チャールズ・マンソン的アシッド・ファシズムの典型とも見て取れる(注9)。そしてこのようなジェネシスのカルトな種子は、インダストリアル・サイケデリアとして1983年をピークにサマー・オブ・デスという名の陰花植物を生み出すこととなる。

     

     

    (注1)”The Second Annual Report”に記載されていたものだ

    発案者はサンフランシスコのパフォーマンス・アーティスト、モンテ・カザッツァ。TG5のメンバーとも称された彼はTGのコンセプチャル部分(主に反社会的方面)に助言、インダストリアル・ミュージックという概念を発明するも「一種のジョークのつもりで言っただけで、こんなに真面目に受け止められるとは思わなかった」と後年語っている。

     

    (注2)シャロン・テート殺害事件

    196989日、ビートルズの“ヘルター・スケルター”からハルマゲドンのメッセージを受信したチャールズ・マンソンが、スーザン・アトキンス、テックス・ワトソンなどのファミリーに命じてハリウッドのロマン・ポランスキー邸宅で起こさせた無差別殺人事件。殺害された5名の被害者のなかにはポランスキーの妻で当時妊娠8か月だった女優シャロン・テートも含まれていた。

     

    (注3)オルタモントの悲劇

    1969126日サンフランシスコ郊外のオルタモント・スピードウェイで開催されたローリング・ストーンズ主催のフリー・コンサートで発生した殺人事件。ストーンズ側が会場警備で雇ったヘルズ・エンジェルスのアラン・パサーロが、観客の黒人青年メレディス・ハンターをナイフで殺害したもの。またこの事件以外にもドラッグ影響下による事故のため3人の事故死が発生した。この事件後、雇い主でありながら裁判で自分たちを全く擁護しなかったミック・ジャガーに対しヘルス・エンジェルス側は激怒。暗殺計画も企てたが未遂に終わった。

     

    (注4)フルクサス運動

    19629月、米国現代美術家ジョージ・マチューナスにより提唱されたグローバル前衛芸術運動。美術、音楽、詩、舞踏などジャンルを問わず、日常と芸術のボーダレス化を意図した。アラン・カプロー、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、ラ・モンテ・ヤング、ジョン・ケージ、ヨーゼフ・ボイス、小杉武久、一柳慧、刀根康尚、武満徹など錚々たるメンツが参加した。

     

    (注5オットー・ミュール

    ギュンター・ブルス、ヘルマン・ニッチェ、ルドルフ・シュヴァルツコグラーらとともにウィーン・アクショニストを代表するオーストリアのアーティスト。1962年よりマテリアル・アクションと銘打った、人間の肉体そのものを素材としたドロドロのオージーかつスカトロジーな作風で話題となる。1972年にはウィリアム・ライヒの心理学から影響されたコミューン、フリードリッヒス・ホーフを設立。AAコミューン(アクション分析コミューン)を提唱し、共有財産制やフリー・セックス、子供の共同養育管理などを実践するも、ミュールによる児童への性的虐待が明るみになり1991年逮捕。コミューンは崩壊した。ミュールは1997年出所後パーキンソン病に侵されつつ美術界に復帰を果たすも2013年ポルトガルのコミューンで死去。享年87歳だった。

     

    (注6)ピーター・クリストファーソン

    いたいけな少年に対するサディスティックな性的嗜好からスリージー(低俗な)と呼ばれるようになる彼は、ピンク・フロイドなどのアートワークで有名なヒプノシスのアシスタント・ディレクターを務めており、後にセックス・ピストルズのデビュー・プロモ制作にも携わった。

     

    (注7)「売春展」

    このギグでは観客としてスージー・スー(スージー&ザ・バンシーズ)など多くの伝説的パンクスが大挙し、ハイ・カルチャーとしての芸術ファンは皆無状態。しかも展示物はコージーのポルノ写真と使用済タンポンという、国家から公的援助を受けた展覧会としては忌々しき事態として大問題に発展。保守党議員ニコラス・フェアバーンに「文明の破壊者!」と糾弾され、連日タブロイド紙の紙面を飾るなど、同年12月のセックス・ピストルズのTV生中継「ファック発言」に匹敵する騒動となった。

     

    (注8)トランスメディア・エクスプレーションズ

    デヴィッド・メダラを中心に1967年北ロンドンで形成されていたパフォーマンス・コミュニティー“エクスプローティング・ギャラクシー”から派生したコミューン。参加者は毎晩違うベッドで眠り、着用する衣服も全て共用、食事の時間もあえて不規則なものとし、24時間常に芸術的パフォーマンスを要求されたという。ジェネシスは18歳の時分に自ら志願してこのコミュニティーに参加していた。

     

    (注9)アシッド・ファシズムの典型とも見て取れる

    ジェネシスによるTG集団心理掌握欲求は恋人だったコージーをクリス(彼もTG加入のために前妻と離婚させられた)に寝取られるという結果を招き、ジェネシスは78年の自殺未遂騒動の後あからさまにTG内で孤立。その寂しさをメイルアート友達だったモンテ・カザッツァに慰めてもらううちにカザッツァの軍事マニアに感化されファシズムに傾倒。移民に対してレイシズム的行動を取るなど一時期は人として最悪な方面(withカザッツァ)へ。生半可な器でグルになろうとすると魔境に陥るのは洋の東西を問わずといったところか。


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