TERRY RILEY KRISHNA BHATT ”アンリリースド・セッションズVOL.2”について

0

    ラーガとテリー・ライリーについて思いつくままに

     

    1968年にミニマル・ミュージック代表作品“In C”をリリースし世間を驚愕させたテリー・ライリーは1970年に突如ラーガ歌手になることを志し、盟友ラモンテ・ヤングとその妻マリアン・ザジーラとともに北インドの伝説音楽家パンディト・プランナートに弟子入りする。

    師匠プランナートをNYに招いた1976年音源。バックにラモンテの姿も

     

    盟友ラモンテの永久音楽劇場1963年音源。ライリーはこの2年後NYに住みこの永久音楽劇場に歌手として参加した。ちなみに「NYは肌に合わないのでずっとサンフランシスコに帰りたかった」と後年身も蓋もないことをライリーは語っている

     

    1970年以降、ライリーはミルズカレッジで教鞭をとる傍ら、インド古典音楽について年間プログラムをこなしていく。その一方で五線譜に記す作曲方法を完全に放棄し、ヤマハのオルガンとテープ・レコーダー片手に即興演奏の日々を10年近く送ることとなる。

    その頃の演奏映像。超ニューエイジャーな感覚あふれるチャクラ全開な瞑想世界。

     

    上記映像をご覧いただいてもわかるとおり、70年代にライリーが学んでいたラーガからの音楽的影響は「直接的には」は繁栄されてはいない。そのことについてライリーは次のように語っている。「ピアノを弾くとき、ラーガを奏したりはしませんが、ラーガの力を理解させようとは試みます。或るほかのかたちの側面から」。

     

    直接的とは別のアプローチでライヒ流ラーガを奏でること。そこにはラーガのみならず、当然ミニマル、そして中東音楽やジャズやブルースの影響をミクスチャーさせたうえで、ラーガのスピリットを放出させる。

     

    また70年代から複数の映画音楽制作に携わってきたライリーだが、ことラーガという意味ではポスト・ゴダールとして名高いスイスの映画監督アラン・タネールによる1985年作品“ノー・マンズ・ランド”のサウンド・トラックにつきるだろう。

    スイスのど田舎の生活から抜け出そうと国境を超える男たちの悲劇を描いた作品。人生辛いコトばっかりや・・・・・

    上記映画のサウンド・トラック。ライリーはこれまでのオルガンではなくピアノを多用しているのが印象的(シンセも使ってはいるが)

     

    ここでライリーはとあるインド音楽家と出会うこととなる。ピンク・シティーでお馴染みジャイプール出身の北インド音楽導師クリシュナ・バットその人だ。“ノー・マンズ・ランド”ではライリーのピアノ、シンセサイザーに加え、バットのシタールとタブラが全編に渡って演奏されており、まさにノー・マンズ・ランドな無国籍空間を描き出している。

     

    1983年のクリシュナ・バット。タブラ奏者はグレイトフル・デッド・ファンにもおなじみザキール・フセイン

     

    で、現在とりかかってる原稿がこのクリシュナ・バットとテリー・ライリーによる1984127日と8日に行われた西ドイツ・ケルンでのライヴ音源発掘2CD。リリース元はドイツのB.Freeより。みなさまお買い求めのほど、よろしくお願い申し上げますm(__)m

    http://diskunion.net/portal/ct/detail/AVY170112-BE4


    calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    293031    
    << January 2017 >>
    PR
    selected entries
    archives
    recent comment
    recommend
    links
    profile
    search this site.
    others
    mobile
    qrcode
    powered
    無料ブログ作成サービス JUGEM