「ダーウィン進化論と神智学協会、霊的進化論」
1859年チャールズ・ダーウィンが発表した”種の起源”における生物進化論が19世紀のキリスト教保守派に与えた衝撃は現在では想像もつかないほど大きかったという。それまでの「神は、6日で世界を創造したとき、すべての生物を個別に創った」「人間は神に似せて創られた」という旧約聖書の前提が覆され、「いやいや、あなたの祖先はサルですよ」と突然宣告されたわけだから、それはアイデンティティ・クライシスも無理がない話であったろう。
また、種の創造は「父なる神」によるものではなく「母なる自然」によってなされた、というキリスト教的男性原理主義の否定も当時の人々の混乱に拍車をかけた。
19世紀中盤の科学発達とキリスト教弱体化によって盛り上がりをみせたのがスピリチュアリズム(霊性主義)だったわけが、やがてそのスピリチュアリズムに(当時話題沸騰だった)進化論をミクスチャーさせた霊性進化論を提唱し、全く新しいユートピア像を築いた神秘思想団体が誕生する。ブラヴァッツキー夫人率いる神智学協会である。
神智学協会がニューヨークで誕生したのが1875年。当時かの地で交霊会を催していたヘレナ・ペトロブナ・ブラバッツキー、通称ブラヴァッツキー夫人(注1)が、その交霊会の資金的スポンサーでもあったアメリカ人弁護士にして奴隷解放運動家でもあったヘンリー・オルコット大佐(注2)たちとともに「宇宙を支配している法則についての知識を収集し普及させること」を目的に設立された。
カバラ、ネオプラトン主義、ヘルメス主義など古代宗教思想から、仏教やヒンドゥー教、キリスト教などあらゆる既存宗教の統合を目指す神智学協会は、人間には不可視とされる神々の英知を探求し、個人個人が至高の存在への進化を目指す霊性進化論をブチあげる。スピリチュアリズムを進化論風に新しく解釈したものとも言える霊性進化論は「人間の生きる目的は、輪廻転生を通してより高度な霊的進化を果たすことにある」説を唱えた。この思想は時を越えて1960年代以降のニューエイジ運動の根幹となり、現在なおもスピリチュアル関連の思想に広く影響を及ぼし続けている。
神智学協会には様々な歴史上の人物が名を連ねた。初代インド首相ジャワハルラール・ネルーやマハトマ・ガンディー(注3)、黄金の夜明け団でも活躍する詩人のウィリアム・バトラー・イェイツ、作曲家のアレキサンドル・スクリャービン、抽象絵画のワシリー・カンディンスキー、ピエト・モンドリアン、後に人智学を唱えるルドルフ・シュタイナー(注4)などが協会に集まり、(協会から分裂するかたちとなるが)ジッドゥ・クリシュナムルティ(注5)を世に生み出した。
このように神智学協会、および霊性進化論は19世紀スピリチュアリズムを新たなるステージに推し進める功績を果たした。しかし一方では「霊性」と「進化」の概念は不穏な霊的レイシズムをも召喚することとなる。
”ヴェールを脱いだ花嫁”(1877)や”シークレット・ドクトリン”(1888)でブラヴァッツキー夫人が描いた宇宙創造史思想(注6)やアトランティス神話(注7)は、19世紀ドイツ人言語学者マックス・ミュラーが提唱し、当時大きな反響を巻き起こしたアーリア神話説(注8)とねじれたミックスを生み出し、アリオゾフィと呼ばれるオカルト運動体へと変貌を遂げるのであった。
アリオゾフィとは「アーリア(白人種)」と「ゾフィ(叡智)」の合体語でゲオルク(アドルフ)・ローゼン・ランツ(注9)が提唱したとされている。
「伝説のアーリア人種とは白色人種のことであり、なかでも最も神に近い存在が金髪、碧眼、長身という身体的特徴を兼ね備えたゲルマン人種である。ゆえにアーリア人たるゲルマン人種はほかの非アーリア系有色人種との交配を避け、純潔を保ち、神への進化を目指すべきである」という人間の神性回復運動であったアリオゾフィ。
元修道士のランツはウィーンのオカルティスト、ギイド・フォン・リスト(注10)の影響の下、ランツの著書“神聖動物学”(1905年)や、自らが出版する雑誌“オスタラ”を通してアリオゾフィ思想をオーストリア、ドイツに広めた。“オスタラ”は100号を超える発行を成し遂げ、あのヒトラーも愛読していたといわれている。
アリオゾフィ運動は第一次世界大戦(1914-1918)敗戦を経て、政治的な左右の極化が進むドイツ国内で狂信的に勢力を拡大していく。そのなかでトゥーレ協会(注11)を筆頭に数多くのアリオゾフィ系秘密結社が設立され、やがてそれら秘密結社からハインリヒ・ヒムラーの秘密研究機関“アーネンエルブ”(注12)やアルフレート・ローゼンベルクによる奇書“二十世紀の神話”(注13)が誕生。本格的なナチス・オカルティズムを形成していくのだった。
(注1)ブラヴァッツキー夫人(1831-1891)
ロシア名門の生まれながら20歳以上年上のニキフォル・ブラヴァッツキー福総督との結婚生活を嫌い1848年出奔。法律上の離婚が成立しなかった理由により、生涯ブラヴァッツキー夫人と名乗る。その後イギリス、フランス、エジプト、ジャワ、インド、チベット、日本などを放浪。サーカスの裸馬乗りや霊媒師ダニエル・ダグラス・ホームの助手を努めながら、様々な宗教家や魔術師、霊媒師より教えを受ける。1870年代に渡米しニューヨークへたどり着く。基本、彼女の経歴は自己申告で矛盾点も多く未だに謎が多い。
(注2)ヘンリー・オルコット大佐(1832-1907)
神智学協会初代会長。バリバリのプロテスタント育ちながら仏教学と深く関わりをもち、仏教との公式の対話を行った最初のヨーロッパ人として知られる。また19世紀スリランカ仏教改革にも大きく貢献し、スリランカ人崇拝者からは紀元前3世紀アショーカ王の生まれ変わりとも、釈迦その人であるとも呼ばれている。
(注3)ジャワハルラール・ネルーやマハトマ・ガンディー
神智学協会は古代インドの叡智に対するリスペクトからインド独立運動を支援しており、そのことは当時のインド人たちに自分たちのルーツ開眼をもたらした。また、ガンディーの尊称であるマハトマ(偉大なる魂)は神智学協会二代目会長アニー・ベサントが命名したとの説も存在する。
(注4)ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)
オーストリア出身の神秘思想家、哲学者、教育者。41歳で神智学協会に加入し、神智学協会ドイツ支部の事務総長を務めるも、協会のインド志向強化と二代目会長アニー・ベサントとの確執(アニーが自らの養子クリシュナムルティを次世代の救世主としようとした)のため1912年脱退。すかさず同年ケルンにて人智学協会を設立。教育、芸術、運動、農業、建築、経済などあらゆるジャンルを霊的に統合しようと生涯活動を続けた。特に教育方面はこの日本でも「シュタイナー教育」として有名だが、そこでシュタイナーの神秘思想家やオカルティストとしての側面が話題になることは皆無なのが寂しい。
(注5)ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)
南インドのチェンナイでバラモン家庭に生まれるも14歳時に神智学協会初代メンバー、チャールズ・W・レッドビーターにその才能を見いだされ、協会にて英才教育を受ける。協会二代目会長アニー・ベサントはクリシュナムルティを「高次の導師によってマイトレーヤ神に選ばれた人物」「1920年代末には神の位に到達する」として1911年“星の教団”指導者に任命。しかし宗教的教義に否定的だったクリシュナムルティは1929年3000人以上の信者を前に教団解散を宣言。その際の「真理はそこに至る道のない土地である」という言葉は有名。その後はインド、イギリス、アメリカ、スイスなど各国をまわり「宗教や神からも自由であれ」という思想を生涯にわたって説いた。
(注6)ブラヴァッツキー夫人が描いた宇宙創造史思想
ブラヴァッツキー夫人は七段階に分かれる人類進化論を説いた。第一人類はアストラル体の巨大なかたまりであり、目視不可。アメーバ体のような分裂生殖をしていた。第二人類はエーテル体までしかないハイバーボリア人。これもまた現代における肉体を持たない霊的存在。かつて北極にあった大陸に存在するも次世代レムリア人の更盛により衰退していった。第三人類はレムリア人と呼ばれる類人猿。4000年〜6000年前にレムリア大陸に存在するも、大陸ごと海中に沈没。わずかに生き延びたレムリア人がエジプト人やインカ人の始祖となる。第四人類はアトランティス人。姿形的には現在の人類と同じで、すぐれた霊能力を持っていたものの、権力に固執しアトランティス大陸ごと海中に沈む。第5人種はアトランティス大陸の生き残りで、アーリア人種。第六人類はバーターラ人。この新しい人種は最初のうちこそ精神的、肉体的な奇形児とみなされるものの、着実にその数を増やし現在でのアメリカ大陸でマジョリティとなる。しかしそのころには火山の爆発や津波などの天災が頻繁化し、最終的にはアメリカ大陸ごと水没する。わずかに生き残ったバーターラ人は新たに浮上した大陸で進化を遂げ、人類における物質的周期は終了する。
(注7)アトランティス神話
プラトンが紀元前355年ころに提唱した人類文明の黄金時代と衰退の伝説。神智学協会いうところの第四人類アトランティス人時代の神話。失われたユートピア伝説としてその概念は現在に至るまで(例えばサン・ラなどからも)語りつくされている。
(注8)アーリア神話説
「言語学的にインドのサンスクリット語とギリシア語は同じルーツを持つ。これらを総称してアーリアン民族と呼ぶ」と当時ミュラーは唱えたが、そのスポンサーがイギリスの東インド会社であったことから、インド植民地化プロパガンダの一環であったという見解が現代では濃厚。事実、ミュラー自身が巨大化していくアーリア伝説に耐えられなくなり、後年は否定的見解を述べている。
(注9)ゲオルク(アドルフ)・ローゼン・ランツ(1874-1954)
オーストリアの元修道士で反ユダヤ主義、民族主義思想家にして評論家。レイシズムとナショナリズムを神智学と混ぜ合わせた人物。1907年には新テンプル騎士団を結成し「純血化と人種的調査を行い、美の審査と民族主義者の将来の居場所を地球の未開発地域に設立することによる、さらなる人種的自信」を目指した。オーストリアがナチス統治下になった1938年、ランツはヒトラーに自らの活動を支援するよう求めるも相手にされず、さらには雑誌”オスタラ”はじめランツ著作は発禁処分となり「ヒトラーは人種的に劣った家系出身」と逆恨みした。
(注10)ギイド・フォン・リスト
ランツが心酔したオカルティスト。ルーン文字の魔術を初めて世に広めたり、ナチスのシンボル・マークとなるスワスティカをはるかに先駆けて自らの儀式に使用したりと、後世のアリオゾフィ思想に大きな影響を及ぼす。ランツはそんなリストの功績を称え1908年リスト協会を設立した。
(注11)トゥーレ協会
ルドルフ・フォン・ゼポッテンドルフにより1918年設立されたアリオゾフィ系秘密結社。ルドルフ・ヘス、アルフレート・ローゼンベルク、ハンス・フランク、ディートリッヒ・エッカート・・・・・など後のナチ党の重要人物たちが多数参加。スワスティカと剣をシンボルマークとし、ナチスの元型となったという説もあるが、1937年ヒトラーによる条例「フリーメイソンおよび類似団体活動の禁止」によりあっけなく解散に追い込まれた。
(注12)秘密研究機関“アーネンエルブ”
1935年ヒムラーがナチスSS内に設立したエリート研究機関。選民であるアーリア人種の研究を主題に、第二次世界大戦中莫大なる予算を投入し、魔術研究から囚人を人体実験として使用した生体実験、人種改良などありとあらゆる非人道的行為がなされていたとされる。
(注13)二十世紀の神話
ユダヤ陰謀論の原点である偽書「シオンの議定書」をヒトラーに紹介した男との説もあるナチス御用学者アルフレート・ローゼンベルクの著書。アトランティス文明から連なるアーリア人(ゲルマン人種)と非アーリア人(ユダヤ人種)の戦いを描いたヒロイック・ファンタジー。アーリア神話とユダヤ陰謀論を結び付けた。
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