2024年3月10日(日)東中野エカイエで開催される「あなたの聴かない世界JAPAN」にて川崎の巫女舞・いろの話を取り上げるのだが、その予習をかねて自分なりに彼らの歴史をまとめてみました。
巫女舞・いろについてのメモ
1981年に結成。織茂敏夫・しず子夫妻による川崎在住のシャーマニック・インプロ・デュオ。活動当初はパンクやノイズ、即興演奏をミクスチャー化したような形態だったが、1986年チェルノブイリ原発事故をきっかけに電気を使わないアコースティックな「エネジー・フリー・ミュージック」化に移行。即興演奏に古神道やアニミズム信仰を盛り込んだ独自のリチュアル世界を展開させる。
いろ / 魂ふり (あるみ缶) 1985
1985年最初期カセット音源。ドラム&ギターとヴォイスによるフリーインプロ。後期の古楽的リチュアル色はほぼ感じさせないハードな内容に彼らの出発点が確認できる。2008年にはP.S.F.レコードからCD化もされている
いろ / 核 (あるみ缶) 1986
1986年自主レーベルよりのカセット作品。音源は確認できないがグループ編成と時期的なものを考えると“魂ふり”的なものがイメージされる。またカセットに同封された織茂しず子のメッセージから政治運動へのコミットもうかがえる。本作は同時期にリリースされた“World Session”“龍気地鳴り、廃炉浄化いろライブ”とともに2017年ゲロゲリゲゲゲのVis A Vis Audio Artsよりカセット再発された。
Iro (Ra Orchestra) / マブリヘノコ (Innerside Records) 2010
1986年チェルノブイリ事故をきっかけにアコースティック編成となったのち、リチュアル色を強めていった彼らの2010年作品。おそらく辺野古の魂という意味のタイトルに、ピアノ、石笛、ベルなどと織茂しず子による詩がボイスが捧げられる内容。
Iro / Anima Animus (Secession) 2019
オーストリア映像作家ハイドルン・ホルツファイントによる記録映画のサントラとして制作されたウィーンのレーベルからのリリース作品。内容は2018年八王子の大学セミナーハウスで即興演奏されたもの。「エネジー・フリー・ミュージック」をテーマに繰り広げられるアニミズム探求世界。
]]>
「国家ボリシェヴィキ党ナツボル」
イゴール・レートフ(グラジュダンスカヤ・アバローナ)やセルゲイ・クリョーヒンといった先鋭ミュージシャンたちを惹きつけた政治結社、国家ボリシェヴィキ党(ナツボル)はネオ・ユーラシア主義(ロシア人によるユーラシア統一)を根幹に民族共産主義を主張する政治団体として1993年モスクワにて結党された。
結党当初のナツボルは2人の指導者により運営される。
「私はだめなものの味方をしてきた。三流新聞、謄写版印刷のチラシ、まったく見込みのない政党、一握りしか集まらない政治集会、へたな音楽家たちが出す雑音。私はこれらが好きなのだ」エドワルド・リモノフ談
ナツボルを牽引したひとりはエドワルド・リモノフ。ウクライナ出身でティーン時代にモスクワに渡りアングラ詩人として活動するも、その反体制活動が当局の逆鱗に触れたため70年代米国に亡命。
ニューヨークに渡り服直し業や三文記事ライター、超金持ちの使用人などで糊口をしのぎつつ、当時のCBGBなどニューヨーク・パンクともコミット。余談だが2番目のリモノフの妻ナタリア・メドベージェアはザ・カーズのジャケ・モデルも務めた。
その後80年代になるとリモノフはパリに渡り本格的に作家としての活動をスタート。ニューヨーク時代のインモラルなどん底の日々を綴った自伝小説“俺はエーディチカ”がパリの文壇で評判となる。
しかし1991年ソ連崩壊の知らせを受け、いてもたってもいられなくなったリモノフはモスクワに帰還するも、そこで目にしたのは80年代のペレストロイカから91年ソ連崩壊を経て、なんの準備体操もないままに資本主義システムに頭から飛び込んだロシアの惨状だった。
国のGDPはどん底まで落ちハイパーインフレ率は2600%に上昇、100万人の金持ちと1億5千万人の貧者を生み出したといわれ、80年代と90年代では比較してロシアの男性平均寿命は10年以上縮小。
街では防弾使用のベンツやBMWに乗った新興マフィアがアフガン帰りの殺し屋たちを従え闊歩し、1年間に殺されるロシア銀行家の数は50名以上に及んだ。
オリガルヒのような一部の勝ち組以外の人々にとってロシアの資本主義化は悪夢でしかなかった。グラスノスチの情報開示によって自分たちの歴史は(うすうす気づいていたとはいえ)嘘つきで人でなしの歴史だったことも暴露された。
ソ連時代は貧しくて不自由でも「それでも自分たちには西側の連中にはない魂がある」ことが支えだったのにすべてが否定され、資本主義に「この田舎モンが」ツバを吐きかけられながらも尻尾を振るしかない人生に転落したのだ(余談だがこの時期東ドイツから帰還した元KGBのプーチンは白タクで糊口をしのぐしかなかった)。
そんなゴロツキ資本主義化した新生ロシアの堕落具合に憤りをおぼえたリモノフは文学者から政治運動家へと転身を果たすこととなる。
「ろくでもないソヴデップ(ボリシェヴィキ指導者の蔑称)め、くたばれ」
アレキクンドル・ドゥーギン
そしてもうひとりのナツボル指導者がアレクサンドル・ドゥーギンだ。1962年モスクワの上流階級の息子として生まれたドゥーギンはティーン時代より先輩作家ユーリ・マムレーエフのオカルト地下運動体“ユジンスキーサークルに所属。サークルでは当時のソ連にはびこっていた平等主義や凡庸さにウオッカまみれのツバを吐き、ユリウス・エヴォラやルネ・ゲノンといったハードコア・トラディショナル思想を崇拝しつつナチオカルティズムやファシズムを夢想する日々を過ごしていた。
1989年ドゥーギンは2冊の本を出版する。“専制の手法”そして“福音の形而上学”と題されたこの2冊はルネ・ゲノンとユリウス・エヴォラの伝統主義と神秘主義、数秘術といったものと「エリートによるロシア統治」の重要性を27歳のドゥーギンが説いたもので、当時のロシアでそれぞれ十万部以上売れたと(ドゥーギン説だが)いわれている。
本当にそれだけ実売があったかは不明だが、本の評価は一部の海外過激思想家たちにも伝わり1990年にドゥーギンはパリに渡りアラン・ド・ブノワをはじめとするフランス新右翼一派と交流を始める。そしてその渡航実績はロシア帰還後のドゥーギンの地位を大きく押し上げた。
リモノフ&ドゥーギンという稀代の反逆者2人が共闘することで誕生したナツボルにはロシア中からありとあらゆる反乱分子が集うこととなる。
ナツボルにはロシア・ポスト・パンク界スター、グラジュダンスカヤ・アバローナのイゴール・レートフ、ロシアのみならず世界のアヴァンギャルド音楽界から注目されるセルゲイ・クリョーヒン、ロシア版ヴォーグ編集長アンドレア・カラゴジンなど著名人を筆頭に、若きインテリ・ファシストや反ユダヤのロシア正教聖職者、そしてロシア中のスクール・カーストからドロップアウトしたルーザーである若者たちが多数集結し結社を構成していた。
「君は若い。このろくでもない国で暮らしたくない。ありきたりの兵隊にも、警官ばかりを気にする間抜けにも、チェキストにもなりたくない。君には反抗心がある。君のヒーローはジム・モリソン、レーニン、三島、バーダーだ。ならばほら、君はもう、ナツボルだ」
エマニュエル・キャレール著”リモノフ”(中央公論新社)より
そんなナツボルの集会所となったのがモスクワの地下室、バンカー(掩体壕)と呼ばれる空間だ。
アンディー・ウォーホールのファクトリーとファシスト集会所が混然一体となったこの空間にはレーニン、ファントマ、ブルース・リー、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ、そして赤軍将校の恰好をしたリモノフのポスターが貼られ、党員たちはそこでビールと煙草とシェパード犬の混じり合った臭いに包まれながら身体を鍛えたり、前衛パフォーマンスに興じたり、機関誌リモンカを制作したりしながら生活していたという。
真面目な政治活動家や団体からみたら馬鹿げた集まりにしか見えなかったかもしれないが、
政治運動とアートを連結させたナツボルの存在は90年代ロシアのカウンターカルチャーを刹那的に作り上げていたのだった。
しかし生粋の反乱分子であるリモノフと、ロシア政権に食い込むことを目的としたドゥーギンの溝が深まっていくにつれナツボル内でもドロップアウト組とインテリ組の対立が表面化していく。結果1997年にドゥーギンがインテリ組を引きつれナツボルを離脱することとなる。
「(ドゥーギンは)政権の堕落した小間使い、恥ずべき体制順応主義者」
リモノフ
「(リモノフは)ちっぽけな旅回りのサーカスの道化で、演技をうまくやれればやれるほど、人目を奪えれば奪えるほどご機嫌なんだ」
ドゥーギン
以後ドゥーギンは著書”地政学の基礎”を発表し、米国のシーパワーに対抗するにはユーラシアのランドパワーが必要であり、ロシアはドイツ、日本、イランと連合すべき・・・・・etcの論を唱えた新ユーラシア主義を主張。これによりプーチン政権のみならず、欧州右翼政党に多大なる影響を及ぼすようになる。
しかし2022年ロシアによるウクライナ侵攻後、ドゥーギンの立場は侵攻支持にも関わらず危ういものとなり、同年8月22日、作家であり元ナツボルのザハール・プレリーピンが主催したZ支持イベント参加後、同席した娘ダリア・ドゥギナを目の前で暗殺されるという悲劇に見舞われる。
ロシア連邦保安局はダリア殺害犯人をウクライナ人ナタリア・ヴォフクによるものと発表するが、真相が明らかになることはないだろう。余談だがプレリーピンも翌年5月に爆弾を使用した暗殺未遂事件をおこされ重傷を負っている。
一方、リモノフは2000年ラトビア共和国教会爆破計画未遂事件を筆頭とする、クーデター計画、武器密輸容疑など幾度かの逮捕、拘禁をくり返しながらもナツボル党指導者として反プーチン運動を展界。共産主義によるロシア人を中核としたユーラシア統一国家樹立を主張し続けていたが2020年77歳で死去している。
ウクライナ侵攻後リモノフが生まれ育ったハリコフも戦火にさらされる現在、もし彼が生きていたらどのような行動にでるのか・・・・・そして娘を失ってもなお未だプーチン支持を表明するドゥーギンの心境はいかなるものなのか、正直計り知れない。
]]>「セルゲイ・クリョーヒン」
グラジュダンスカヤ・アバローナのイゴール・レートフ同様に国家ボリシェヴィキ党(ナツボル)に関わった音楽家として有名なのがセルゲイ・クリョーヒンだ。こちらは1989年に来日したこともあり、日本のアヴァンギャルド系ファンの間でも有名な人物だ(余談だがクリョーヒンは生前ゲロゲリゲゲゲなどジャパノイズ作品の熱心なコレクターでもあった)。
1954年ムルマンスクで生まれたクリョーヒンはのちにレニングラードでアカデミックな音楽教育を受講。バリバリのクラシック教育を叩き込まれるも、彼の関心はロックや即興ジャズへ向かいドロップアウトする。
クリョーヒンは70年代からロシアのロックバンド、アクアリウムを筆頭に様々なミュージシャンたちからキーボード奏者として引っ張りだことなるが、代表的なものをあげるとなると80年代なかばに彼が結成したポップ・メハニカだと断言したい。
「大衆音楽のメカニズム」をバラバラに解体し、つなぎ合わせてフランケンシュタイン的モンスター・ミュージックを即興的につなぎあわせるポップ・メハニカ。手法としては斬新とは言えないかもしれないが、舞台上に牛やうさぎなどの動物を放し飼いにするパフォーマンスなど常軌を逸したエネルギーのダダ洩れ具合は今も伝説となっている。
1987年ペレストロイカ以降は積極的に西側でのツアー活動を開始。共演もジョン・ゾーン、ヘンリー・カイザー、エリオット・シャープなど「いかにも」なものから、西ベルリン時代のノイバウテン、さらにはエコー&ザ・バニーメンやクリスチャン・デスなど「誰がブッキングしたんだよ」と言いたくなる面々とのライブもこなした。米国に渡った際にはフランク・ザッパともレコーディングした事実があるがその音源は未だ発表されていない。
また前述したがクリョーヒンは89年には高橋悠治主催“開かれた地平”に参加するために来日も果たしており、当時日本の先鋭的な一部音楽メディアでも積極的に紹介されていた。
クリョーヒンは音楽家以外にも役者、ロシアTV番組制作者としての顔を持つ。月に2回放送されたオスタンキノTVでの番組Pyatoe Kolesoで、クリョーヒンはプロデューサー兼ホスト役を務めた。特に有名なのがソ連崩壊の1991年に制作され、ロシアで社会現象を巻き起こした“レーニンはキノコである”事件である。
この事件はクリョーヒンが番組相方のジャーナリスト、セルゲイ・ショーロフとともに「レーニンは大量のマジックマッシュルームを食べた結果、体がキノコになった」という本多猪四郎映画“マタンゴ”を彷彿とさせるデマをテレビ発信したものだった。
時はソ連情報公開グラスノスチ真っ只中。それまでのソ連国民の常識が根底から覆され続けていた時期もあってテレビを観た人々はこのデマを信じ、ソ連共産党が対応に追われる事態にまで発展した。
クリョーヒンはレーニン・ネタ以外にも“ルイ・アームストロングとブードゥ教”“ガガーリンとチベット音楽”“カレント93とアレイスター・クロウリー”といった『あなたの聴かない世界』の30年以上先をいっていたTV番組を放送する予定と95年に述べていたが実際に放映されたかは不明である。
そしてクリョーヒンは1995年ナツボルに入党する。これはナツボル創始者のひとりで後にプーチンの裏方と呼ばれるも、その急進的思想が原因で2022年に娘を暗殺されることとなるアレクサンドル・ドゥーギンの誘いがあってのことと推測される。
ソ連が崩壊し、米国の一人勝ちとなった世界情勢を背景として(欧米文化を愛しつつも)グローバル化の名のもとに均一化されていく世界の流れへのカウンターとしてナツボルに惹きつけられたのか?そこらへんは推測するしかないが、「自分は愛国主義者である」ことは公言してはばからなかった。
そんな急進的愛国運動に身を捧げたクリョーヒンであったが、その翌年1996年心臓肉腫のため亡くなってしまう。享年42歳という若さであった。
SERGEY KURYOKHIN / The Ways Of Freedom 1981
北極海に面する港町ムルマンスクにて軍人の家庭に生まれたクリョーヒンは4歳よりピアノを叩き込まれ、高校卒業後はレニングラード音楽院にてムソグルスキー音楽を学ぶも不登校により退学処分となる。その後は人気ロックバンドだったアクエリアスへの参加を筆頭にロックやジャズ界隈で有名キーボード奏者として活躍した。そんなクリョーヒンの最初期ソロ作品が本作であり、オリジナルはソ連のメロディアから、のちに英国のレオ・レコードより発表された。当時アート・テイタムと比較されていたのもうなずくしかない、クラシックともジャズとも前衛ともつかないピアノによる越境行為博覧会。
POP MEKHANIKA / Live At Riga 1987
1984年ごろよりクリョーヒンが組織し、ある意味ライフワークともなった音楽集団ポップ・メハニカ。そもそもはモスクワでクリョーヒンが“ポピュラー・メカニクス”というアメリカ雑誌を見つけ、そこから機械的な大衆音楽という着想を得たのがきっかけだという。グループとしての作品では1stにあたる旧ソ連時代ラトビアでの87年ライブ。ドイツ・テクノ界パイオニア、ウェストバムを招いてのバトルで、演劇、大道芸、パフォーマスアート、実験即興音楽をブレイクビーツとスクラッチでズタズタに切り裂きつなぎ合わせる壮絶な世界。
POP MEKHANIKA / Insect Culture 1987
“Live At Riga”と同時期にリリースされたポップ・メハニカ2nd。古今東西のあらゆる音楽(非音楽も含めて)を解体しつなぎ合わせるスタイルとして“Live At Riga”ではウェストバムが重要な役割を果たしていたが、ここではソ連の電子音楽家イゴール・ヴェリチェフとヴァレリ・アルコフがテープ・コラージュを駆使し、よりユーラシア大陸色を打ち出したアブストラクト音響絵巻を展開。余談だがこのふたりは後にニュー・コンポーザース名義でピート・ナムロックと共演している。とにかくこの絵図を描いたクリョーヒンの才能が本当にヤバい名作。
SERGEY KURYOKHIN /Опера Богатых 1992
クリョーヒンの自主制作で92年にリリースした“金持ちオペラ”。オペラといいつつほぼほぼインスト・ナンバーで占められており「オペラなの?」と謎しかないが録音が87年ごろで、ポップ・メハニカ常連のソ連ロック人脈で構成されたカテゴライズ不能音楽なほぼほぼポップ・メハニカ。肝心のオペラ・ナンバーはなぜか由緒正しいキーロフ劇場の花形オペラ歌手、オルガ・コンディナを起用し、ニューウェーブ風オペラを繰り広げる様はまさに「赤い」クラウス・ノミと言えそうなデカダン風味を醸し出している。
SERGEY KURYOKHIN & KESHAVAN MASLAK / Friends Afar 1996
1995年おそらくアレクサンドル・ドゥーギンの誘いで国家ボリシェヴィキ党に入党したクリョーヒンによる最後の録音作品。米国フリー・インプロヴァイザー、ケシャヴァン・マスラクとのデュオ。クリョーヒンが生涯こだわった雀言葉ナンバーなどアヴァンギャルド・テイストも確認できるが全体的に内省的な印象なのは気のせいだろうか。ロシアのトラディショナル・ナンバー”Those Were The Day”(メリー・ホプキンの悲しき天使で有名)や、クリョーヒンが唄を披露する”My Happiness”の叙情性に思わず目頭が熱くなる。ラスト・トラックが”This is not the end”と題されたのも何かを暗示してるとしか思えない。
]]>
2023年7月に阿佐ヶ谷TABASAにて宇田川岳夫さんと行った「あなたの聴かない世界RED」を来春アタマにZINE化すべく作業中。
とりあえずこんな感じの内容になります的な原稿をブログにお試しUPします。
「グラジュダンスカヤ・アバローナ」
80年代に第一次ムーブメントを迎えたロシア・ロック・シーンだったがペレストロイカ混乱期という社会情勢が大きく、反体制的姿勢はまだまだ弾圧の対象だった。キノーのように明確なメッセージを打ち出さずに大衆の人気を得るものもあったが、その正反対のパンクな姿勢を打ち出したのがイゴール・レートフによるグラジュダンスカヤ・アバローナ(以下GO)だ。
GOは1984年レートフとコンスタンチン・リャビノフによって結成される。しかしペレストロイカ前夜ということもあってグループはKGBに目をつけられレートフは精神病院に、リャビノフは軍隊へと送られてしまう。約1年間の強制入院を経て解放されたレートフは自宅アパート(通称グロブレコード)で宅録作業を86年よりアンダーグラウンドに開始。
そもそもは60年代USロックやガレージパンクを愛するレートフだったが、スタート当初は一人ですべての楽器を演奏し、なおかつチープな録音環境での制作作業を行っていたため初期GOサウンドはガレージパンクというよりは、そこはかとないフォーキーさを漂わせたLo-Fiパンクといった印象であった。
1987年にGOはノボシビルスクロックフェスティバルに偽名を使って出演。主催者の静止をふりきったゲリラ的パフォーマンスは伝説となりソ連ロックファンの人気を得る。
その後88年から1990年というソ連が崩壊を加速させていく時代に積極的なライブ活動とレコーディング活動にいそしむも、ロックスター的名声にうんざりしたレートフは1990年突如GO解散を宣言。
GO解散後はイゴール&オピズデネフシー名義でサイケデリック・ロック路線で活動。ソ連崩壊の悲哀をトリップ感覚で包み込んだような内省的世界を展開させた。
1993年イゴール&オピズデネフシー名義での活動に一区切りをつけたレートフはGOの再活動に着手する。そして同時期にレートフはハードコアな政治運動へと足を踏み入れる。
作家にして政治運動家エドワルド・リモノフとオカルト地政学者アレクサンドル・ドゥーギンが結社した政治団体、国家ボリシェヴィキ党(以下ナツボル)の創立メンバーとして加わるのだ。
レートフとナツボルの関係は1999年まで続いた。以後のレートフは2008年53歳の若さで亡くなるまで政治的な立場からは一線を引くこととなる。
彼の心象風景の移り変わりは計り知れないが、アートと政治運動が混然一体となって結びつき赤いカウンターカルチャーを作り上げた重要人物として、レートフの存在はまだまだ調べることが多いままである。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА/
Игра В Бисер Перед Свиньями 1986
西シベリアのオムスクで育ったイゴール・レートフがセルゲイ・クリョーヒンやポセフでの活動を経て結成したグラジュダンスカヤ・アバローナの1stアルバム。バンド結成そのものは1984年末だったが速攻でKGBに目をつけられ85年にレートフが精神病院にブチ込まれた経緯を経てからの作品。”豚の前のガラス玉ゲーム”と題された内容は後のパンク、オルタナティヴ路線とは異なる、レートフが愛したUSガレージロックをティラノザウルス・レックス風構成で再現したようなアコースティック世界。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА / Некрофилия 1987
ペレストロイカの風に乗りつつもいつまたKGBによって精神病院送りにされるかを危惧しつつ、87年から89年にかけてイゴール・レートフはグラジュダンスカヤ・アバローナとして怒涛の作品リリースを敢行する。時系列としては2ndアルバムとしてカセット・リリースされた本作”ネクロフィリア”では1stのアコースティック編成からディストーション・ギターとドラムが疾走するパンク路線にシフトチェンジを果たしている。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА / Мышеловка1987
ネコちゃんジャケがかわいい”ネズミ捕り”と題された3rdカセット。80年代のグラジュダンスカヤ・アバローナはまさに生き急ぐ勢いで怒涛のリリース・ラッシュをかますが、同時に音楽的変化もめまぐるしく1stのアコースティック・ガレージから2ndのパンク路線、そして本作では後期につながるオルタナ・ガレージサイケに突入。この時期の作品は一応ライナー部分にメンバー表記はあるものの実質イゴール・レートフが自らのアパート(通称グロブレコード)で一人宅録したものである。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА / Поганая Молодежь 1988
1984年イゴール・レートフとコンスタンチン・リャビノフによって結成されたグラジュダンスカヤ・アバローナが1985年という最初期に録音した音源をもとに製作された4th“不潔な若者”。録音当時未完成のままKGBによりレートフは精神病院に、リャビノフは(心臓に疾患があるにも関わらず)軍隊にブチ込まれる。しかし88年兵役からリャビノフが無事帰還したのを機に約3年越しで完成した作品。すでにレートフのみで発表された楽曲もあるがひしゃげたギターの厚みが増し、初期ジーザス&メリーチェインをも彷彿とさせるガレージパンクがカッコよい。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА /
Русское Поле Экспериментов 1989
グラジュダンスカヤ・アバローナ1989年17枚目のスタジオ・アルバムにして2010年に「史上最高のロシア・ロック・アルバム50」において25位に輝いた、彼らの最高傑作と評価の高い一枚。89年はすでに4枚ものアルバム作品を制作していたGOだったが、当時使用していたレニングラード録音スタジオの清潔な音質にレートフは納得できてなかった。そこで彼は初心に戻り、録音トラックを自宅アパートに持ち帰りLo-Fiな音質に戻し完成させたという。この時期にレートフが目指したGOサウンドが凝縮された“ロシアの実験場”とのタイトルに恥じないオルタナティヴ世界。
Егор И Опизденевшие / Сто Лет Одиночества 1992
ロック・スター的扱いに嫌気がさしたとの理由で人気絶頂の1990年突如グラジュダンスカヤ・アバローナを解散させたイゴール・レートフが新たに結成したユニット、イゴール&オピズデネフシー。英国80`sネオサイケ的テイストを色濃く感じさせるエフェクト過剰主義と内省的オルタナ・ロックがいなたく漂う。そもそもは60’sUSガレージ・サイケのマニアだったレートフだけにひょっとしたらラヴみたいなものを目指したのかもしれないが、結果陰鬱なウォッカ・トリップに着地しているのがすごい。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА /
Невыносимая Легкость Бытия 1997
1993年グラジュダンスカヤ・アバローナを復活させたイゴール・レートフは国家ボリシェヴィキ党に加わり急進的愛国運動を公言する。それまでレートフを反ソビエト、無政府主義とみていた多くのファンの大きな反感を買うも彼の運動は加速。そんな政治路線を代表する時期の作品だ。ミラン・クンデラ小説“存在の耐えられない軽さ”をモチーフに性急なビートと多重録音されたギター・ノイズがウォール・オブ・サウンドを構築する「赤い」シューゲーザー・パンク。しかし本作を最後にレートフとともにバンド創設メンバーだったコンスタンチン・リャビノフが脱退。その2年後にはメンバーのエフゲニー・ピャノフも事故死するなどいわくつきの一枚となった。
ГРАЖДАНСКАЯ ОБОРОНА / Зачем Снятся Сны 2007
グラジュダンスカヤ・アバローナの23枚目スタジオ作品にしてラストとなる“私たちはなぜ夢を見るのか?”。ナツボルとの関係はもとより政治的立場からは完全に一線を引き、まるでイゴール&オピズデネフシー時代に戻ったようなサイケデリック世界を展開。レートフの長期に渡るアルコール中毒、そしてLSD服用のバッドトリップからの回復の道のりを綴った暗黒ドリーミー物語が美しくも痛々しい。ドラッグ賛歌が過ぎるとされロシアの批評家からは酷評だったがレートフ本人は最高傑作と自負していたものの、翌年2月アルコール中毒に起因する急性呼吸不全により死去、GOも解散となる。
]]>アダム・ヴァイスハウプト(1748-1830)
「イルミナティ陰謀論とロバート・アントン・ウィルソン」その2
ロバート・アントン・ウィルソン、そしてディスコーディアンが現代に復活させたイルミナティ陰謀論。その源泉をたどると18世紀神聖ローマ帝国時代のドイツ、バイエルンに行き着く。
1776年5月1日、イエズス会修道士でありインゴルシュタット大学教授であったアダム・ヴァイスハウプト博士は在籍していたドイツ・フリーメイソン・ロッジ内部に“バイエルン啓明結社(バイエルン・イルミナティ)”を設立する。
イルミナティのエンブレム
設立当初はヴァイスハウプトが自身の生徒からスカウトした弟子筋による学生秘密結社として地味にスタートするが、森鴎外著“知恵袋”“心頭書”でもお馴染みのアドルフ・クニッゲ男爵が団の運営に関与することで秘密結社としてのイルミナティの組織力は増大する。
1780年初頭にはあのゲーテも入会するほど人気を博しドイツ、オーストリアのみならずワルシャワ、パリ、イタリア、デンマークに至るまで有閑階級を中心にイルミナティは爆発的ブームを巻き起こした。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)
そもそものイルミナティの教義は当時のイエズス会における大学教育に対するアンチであり、国家や教会によってタブーとされた学問や知識を広げることによって政治や社会に対する批判精神を大衆に培わすことであった。
しかし1785年、膨れ上がったイルミナティの力を危惧したバイエルン政府は結社に対して徹底弾圧を行う。いわく「イルミナティはヨーロッパのすべての王権、ひいてはローマ教皇までも転覆させる計画を企てている」という嫌疑によって。
この国家弾圧により結社会員は投獄、資産没収、公職追放の憂き目にあい、公職を追放されたヴァイスハウプトはゴータに亡命。これにより栄華を誇ったイルミナティはわずか9年でその運動を潰やすこととなった。
さて史実としてのイルミナティについてはおおむね以上の通りなのだが、1785年の解散後もイルミナティは陰謀論という別次元でその存在を継続させることとなる。それも解散以前よりも絶大な影響力を持ってである。
その陰謀論によればイルミナティ崩壊後に発生したフランス革命やアメリカ独立革命を陰で操ったのはイルミナティであり、この世界で勃発するあらゆる紛争の影にもイルミナティは存在しているという。イルミナティは共産主義をもって世界を支配下におさめようと画策する悪魔崇拝主義者である・・・・・などなど。
まるでそのまま現在のディープステイト論にも通じるイルミナティ論ではあるが、やっかいなのはこれら陰謀論を一笑に付すことの愚かさを、陰謀論を鵜呑みにする愚かさ同様にわれわれは「知って」しまっていることであろう。かつてプラトンが著書“国家”で指摘したようにわれわれが実存世界で認知できる「真実らしきもの」などイデアの影にすぎないのだから。
「オカルト陰謀論にはまっていくと、人はやがて神話的広がりをもった岐路に直面する。仲間うちでは、これを<チャペル・ペララス=危険な礼拝堂>と呼んでいるが、向こう側に出るときには、まったくの“パラノイア”か“不可知論者”になってしまう。別の道はない。私の場合“不可知論者”になって出てきた」
ロバート・アントン・ウィルソン著“コスミック・トリガー”より
コスミック・トリガー 八幡書店
ディスコーディア教団入信後のウィルソンはメディアを通じてあらゆるものをイルミナティとして攻撃していく。
JFK暗殺事件後にポスト・ケネディとして大統領のポストに就任しヴェトナム戦争長期化を招いたリンドン・ジョンソン、CIA職員であり“スカル・アンド・ボーン”構成員、そしてマッカーシズム推進派の保守思想家にして小説家だったウィリアム・バックリー・ジュニア、ウォーターゲート事件のリチャード・ニクソンから火星からのインベーダーや自分自身まで、政治的左右問わず通り魔的にすべてをイルミナティ陰謀論に巻き込み、ギリシア神話の女神エリスがそうしたように不和と争いの火種をまき散らしながら世間をかく乱していった。
はてにはウィルソンは“プレイボーイ”誌時代の同僚ロバート・シェイと共作で、イルミナティとディスコード教団の時空を超えた戦いを描いたSF小説“イルミナティ”三部作を1975年発しイルミナティ陰謀論をポップカルチャーへと昇華させることに成功。
この成功を受け1982年にはスティーブ・ジャクソン・ゲーム社がイルミナティ・カードを商品化したことで陰謀論界隈に新たなトピック(9.11など後の大事件をこのゲームが予言していたなど)が加わったことも記憶に新しい。
イルミナティ・カード
以上のように米国のポップ・オカルティズムと陰謀論の地下水脈を形成していったディスコーディアニズムであったが、その不可思議な影響力は80年代末に海を渡りポップミュージック界に感染していくこととなる。The KLFの登場である。 続く
]]>「イルミナティ陰謀論とロバート・アントン・ウィルソン」その1
1957年カリフォルニアのボーリング場にてギリシア神話における不和と争いの女神エリスより啓示を受けたグレッグ・ヒルとケリー・ソーンリーのふたりはすぐさま新興宗教団体ディスコード教団設立を企てる。
教団における崇拝対象はもちろんエリスであり、その内実はシュルレアリスムやダダ、ポストモダニズム、ドラッグ文化、禅、魔術、オカルティズム、UFOカルトから古今東西の陰謀論までをごった煮に統合したメタ宗教であった。
ディスコーディアニズムとは後述するロバート・アントン・ウィルソンが語るように「宗教として偽装された精巧なるジョークであると同時に、精巧なジョークとして偽装された宗教」としての宇宙冗談因子であった。それは西洋的宗教、論理、法律の基盤となる一元論、一神論に真っ向から対立する。
いち冗談宗教的始まりだったディスコーディアニズムだったがヒルとソーンリーが発行した教団聖典“プリンキピア・ディスコーディア”がアングラ出版界でカルト人気を生み、当時の詩人や作家、編集者、活動家などカウンターカルチャー界隈の人々が続々参加、その思想運動は複雑怪奇に増殖していくこととなる。
なかでもディスコーディアニズムを世間に広めた重要人物がロバート・アントン・ウィルソンであった。
1966年より1971年までの5年間あの“プレイボーイ”誌で名物編集者を務めていたウィルソンは、彼が担当する「読者のお便り」コーナーで様々な陰謀論と接するなかでソーンリーと知り合うようになる。ディスコード教団の存在を知ったウィルソンは迷うこともなく教団のイニシエーションを受け入信を果たす。
ウィルソンが在籍していた頃のPLAYBOY誌
ウィルソンという大手メディアに関わる人材を得たことでディスコーディアニズムは大衆文化への浸透を加速させていく。1967年サマー・オブ・ラブの季節になるとディスコーディア教団の秘密のサインとして復活させたVサインがカウンターカルチャー界に蔓延するなどその影響力は大きなものとなっていった。
そんななか彼らが復活させたのがイルミナティ陰謀論である。続く
]]>「JFK暗殺とディスコーディアニズム誕生」
1963年11月22日金曜日、テキサス州ダラスを遊説中だった第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディはリムジンでの市内パレード途中、突如3発の銃弾を撃ち込まれ死亡する。
ダラス市警とFBIは狙撃から約3分後テキサス州立公立学校教科書倉庫ビルを狙撃場所と判断し現場へ直行。捜査の結果ビルの6階倉庫からカルカノM1938ライフル銃1丁と薬莢3個を発見し、ビルの従業員で当日何故か行方不明となった元アメリカ海兵隊員リー・ハーヴェイ・オズワルドを緊急手配にかけた。
逮捕直後のオズワルド
そして事件から約70分経過したころ、事件現場近くの映画館で「チケットを買わず無断で劇場に入った不審人物」として切符切りに通報されたオズワルドは駆け付けた警官隊によって逮捕される。その時の彼への逮捕容疑はダラス警察官J・D・ティピット殺害に関してのものだった。ティピット巡査はケネディ銃撃から約45分後にオズワルドとおぼしき人物に職務質問をかけたが職質相手から4発のハンドガンによる銃撃を受け死亡したとされている。
巡査殺害に加え大統領殺害容疑も加わった逮捕後のオズワルドだったが犯行に関しては全面否認を貫いていた。マスコミの前でオズワルドは「過去の亡命(彼はソ連に亡命していた過去があった)につけこまれた」「自分は嵌められた」などと主張し続けた。
しかし事件から2日後の11月24日午前11時21分、ダラス警察署から都刑務所に移送される直前に多くの人々が見守る中でオズワルドは地元マフィアとつながりのあるナイトクラブ経営者ジャック・ルビーの手によって射殺されることとなる。
ルビーに撃たれるオズワルド
地元では悪名高い人物として有名だったルビーが何故にそのような重要現場に堂々と潜り込めたかは不明だが、犯行後ルビーは錯乱したかのように「何者かに操られていた」「癌細胞を注射された」などの証言を残したまま約4年後ダラスのバークランド記念病院で死亡する。死因は肺癌による肺血栓塞栓症であった。
このような前代未聞の劇場型事件はその不可解さの帰結として様々な陰謀論の温床となり現在に至るまで論争を繰り広げ続けるのだが、ここで話はディスコーディアニズムへと繋がっていく。
ディスコーディアとはギリシア神話における不和と争いの女神エリスをローマ神話上で表す言葉であり、この紀元前の女神ディスコーディア(エリス)より1957年カリフォルニアのボーリング場で霊的な啓示を授かったというグレッグ・ヒルとケリー・ソーンリーのふたりが新興宗教として設立を企てたのがディスコーディアニズムであった。
ケリー・ソーンリー
グレッグ・ヒル
そして驚くべきことにソーンリーはかつて海兵隊時代に大統領暗殺実行犯とされたオズワルドと親友と呼ぶ関係にあったという。海兵隊時代のソーンリーとオズワルドはともにマルクス思想に傾倒していた理由から軍隊内で問題児扱いされ、つまはじき者同士の交流を深めた仲だった。
かつての親友ふたりは大統領暗殺事件勃発のわずか数か月前1963年の夏に、一時的にではあるがお互いが気付かぬままに(!)ルイジアナ州ニューオリンズで距離にしてわずか2、3ブロックほどの近所で生活していた記録が残されている。同時期、ほぼ同じ場所でオズワルドは通信販売でカルカノM1938を注文し、ソーンリーはディスコーディアニズムのアイディアを構想していたことになる。
この奇妙なシンクロニシティは当局の知ることとなりソーンリーはオズワルドの共犯説や真犯人説として疑惑の対象となる(事実、大統領暗殺事件当日現場では複数のオズワルドとおぼしき人物が目撃報告されていた)。
なかでもオリバー・ストーン映画”JFK“でおなじみ、独自に事件の真相を追っていたニューオリンズ地方検事ジム・ギャリソンはソーンリーを容疑者のひとりと考え、オズワルドがライフルを持ってポーズをとった有名写真(この写真が”ライフ“誌の表紙を飾ったことで世間におけるオズワルド犯行説を強く印象付けた)は合成写真であり、本当のモデルはオズワルドではなくソーンリーであると示唆するほどに疑いの眼差しを向けていた(最終的にギャリソンはニューオリンズの実業家クレイ・ショーを逮捕するも1967年裁判で敗訴する)。
ジム・ギャリソン
ギャリソンが合成写真説を唱えた一枚
話は前後してしまうのだが、オズワルドとソーンリーがニアミスしていた1963年夏のニューオリンズではもうひとつの不可解すぎるシンクロニシティが発生している。
ソーンリーとグレッグ・ヒルのふたりによって57年に創立された新興宗教ディスコーディアニズムがその聖典として発行したジン“プリンキピア・ディスコーディア”の最初の文章“いかにして西洋は失われたか”が印刷されたのが1963年の夏。しかも印刷はニューオリンズのジム・ギャリソン事務所にあったゼロックス機からプリントアウトされたものだったのだ。
プリンキピア・ディスコーディア
時系列的にはこの時期ではギャリソンもソーンリーもお互いの存在は知らず、偶然にも当時グレッグ・ヒルのガールフレンドがギャリソンの秘書を務めていたことから発生したシンクロニシティであった。
これら偶然の一致が意味するところが何なのかは誰にも説明不可能なのだが、ともあれ1963年夏に印刷された怪文章“いかにして西洋は失われたか”はやがて“プリンキピア・ディスコーディア”としてアンダーグラウンドに流通されることとなり、ディスコーディアニズムとしてカウンターカルチャーとポップ・オカルティズムに多大なる影響を及ぼしていくこととなるのだった。 続く
]]>■コンスピリチュアリティ・フリークエンシー
「不和と争いの女神エリスとトロイア戦争」
紀元前における第零次世界大戦としてギリシア連合と小アジア王国トロイアの間で勃発したトロイア戦争。有名なトロイの木馬を生み出した陰惨極まりないこの戦争は現在でこそ史実か否かの考古学的論争が続いているが、19世紀末にドイツのハインリヒ・シューマンがトロイア遺跡を発掘するまではあくまで神話として人々に語られていたものであった。
トロイア戦争を物語る神話として有名なものといえば古代ギリシア吟遊詩人ホメロスが描いたとされる叙事詩“イリアス”そして“オデュッセイア”あたりだろう。しかしここでは戦争の発端となったホメロスの“キュプリア”に注目したい。“キュプリア”の内容は以下の通りだ。
ホメロス 紀元前8世紀
至上神ゼウスはある日世界の人口が増えすぎたと感じ、戦争を起こし人口削減を図ることで問題解決を図ろうとする(神というものは本当にロクデナシだということがわかるエピソードである)。
そんななかギリシア神話英雄ペーレウスと海の女神テティスの結婚式がオリンポスで執り行われる(余談だがこの夫婦はトロイア戦争最強戦士となるアキレウスの親となる存在)。
式には様々な神々が集まり宴が繰り広げられていたが、その宴のなかに突如として黄金の林檎が投げ入れられる。そして黄金の林檎には「最も美しい女神に贈る」とのメッセージが添えられていた。
ヤーコブ・ヨルダーンス”不和の黄金の林檎”
かくして「最も美しい女神」の座をめぐって黄金の林檎争奪戦がヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三人の女神によって繰り広げられるのだが、この争いの仲裁を買って出たゼウス(!)の提案により、トロイア方面のイーデー山で羊飼いをしていたパリスに審判を仰ぐこととなる。
リンゴを持つパリス
審判パリスには3女神から様々な買収工作が持ちかけられるが最終的に「最も美しい女神」の座をゲットしたのはアプロディテーだった。勝者アプロディーテーは審判パリスに買収工作約束であった「最も美しい女」をあてがう。
しかしこの「最も美しい女」こそはスパルタ国王メネラーオスの妻ヘレネーであった。妻を奪われたメネラーオスは当然激怒しアガメムノーン、オデュセウスらとともにギリシア軍を組織、トロイアに戻ったパリスと、トロイア国そのものに戦争を仕掛けるのであった。そう、これがトロイア戦争の始まりである。
この物語は当然ゼウスがディープステイト的に暗躍し企てられたものであったが、そのトリガーとなった黄金の林檎を宴のなかに投げ入れた存在こそが不和と争いの女神エリスであった。
神話上に描写される女神エリスの姿は大きな翼を生やし、血と埃にまみれた鎧を着て槍を持ち炎の息を吐く。トロイア戦争勃発後も戦場にて猛り狂いまくり、ギリシア軍トロイア軍双方に敵意を吹き込み続け、悲惨な戦争を継続させたという。
女神エリスは世界における考えられる限りの災いの母となり、ポノス(苦労)、レーテー(忘却)、リーモス(飢餓)、アルゴス(悲嘆)、ヒュスミーネー(戦闘)、マケー(戦争)、ポノス(殺害)、アンドロクタシアー(殺人)、ネイコス(紛争)、プセウドス(虚言)、ロゴス(空言)、アムプロギアー(口争)、デュスノミアー(不法)、アーテー(破滅)、ホルコス(誓い)を生んだとされている。
そんな紀元前のギリシア神話上に存在した女神エリスだったが、この不和と争いの女神は1957年アメリカ西海岸に時空を超えて突如復活を果たすこととなる。これがディコーディアニズムの誕生であった。続く
]]>
■催眠と音楽、フランツ・アントン・メスメルの世界
現代に至る催眠治療の父にして近代オカルト代替治療の元祖と呼べる存在がドイツの医師フランツ・アントン・メスメル(1734-1815)である。
ウィーン大学在籍時より”人体への惑星の影響について”と題した博士論文を発表。ニュートンが提唱した潮の干満理論を人体にも用いり、太陽や月の運動に影響され人体のなかでも潮の干満が発生、そのことで病気が発生すると解説した。
メスメルは34歳で男爵未亡人マリア・アンナと結婚。平民出身のメスメルだったがここで一気に上流階級に仲間入りをはたし、豪華な宮殿住まいと医者としての独立開業をスタートさせる。
そんな順風満帆なメスメルは独自の動物磁気理論を提唱する。動物磁気とは人間のみならず動物、植物含めた万物の生命体が持つとされる目に見えない流体パワーのことであり、ヒステリーなどの18世紀当時原因不明とされた疾患はこの動物磁気の不均衡が原因であるとメスメルは唱えたのだった。
動物磁気説はやがてメスメリスムとも呼ばれるようになる。最初は(磁気だけに)磁石や鉄の棒などを使用した施術方法だったが、そのうちに手のひらを患者の体に(触れるか触れないかの感覚で)かざすことで動物磁気を流動させるという、現代の手かざしの源流となるようなメソッドを確立。
メスメルの施術風景イメージ
この手法はメスメルが活動していたオーストリアのみならず、彼の祖国ドイツやイギリス、フランスにまで伝わり、当時の西洋医学に対するオルタナティブな立ち位置で有名になっていった(故に当時の科学的立場を信仰する人々からは嘲笑もされていた)。
さらにはメスメルの弟子であったビュイセギュールがメスメリスム施術の際に磁気催眠と呼ぶべき独特な半覚醒状態に患者が入ることに着眼。この半覚醒状態を利用することによって医師と患者の間に動物磁気エネルギーの交感状態を作り出し症状を取り除くメソッドを提唱した。
やがてイギリスの医師ジェイムズ・ブレイド(1795-1860)がメスメリスムにおける動物磁気理論を心理生理学的に解読し、メスメリスムは決して迷信的な疑似科学ではないことを力説した論文を発表。この流れからメスメリスムは現代の催眠療法へと繋がっていくこととなる。
そんな現代催眠の礎を築いたメスメルだが「あなたの聴かない世界」的には彼と音楽の関わりを無視することはできない。
先ずはメスメルがパトロンとして面倒をみていたモーツァルトの存在がある。前述のように男爵未亡人と結婚したことで宮殿住まいとなったメスメルはそもそもの音楽好きもあって自らの宮殿にハイドンやグルックといった音楽家や、同じように音楽を愛する貴族たちが集うサロンを形成させていた。
そんなサロンで若き音楽家たちの面倒を見ていたメスメルはザルツブルク在住時代のモーツァルトが演奏旅行のためウィーンを訪れた際のバックアップも名乗り出ている。
モーツァルト
それだけではなくモーツァルト二度目のウィーン上京の際には当時12歳だった彼にメスメルは作曲まで依頼している。その依頼は”パスティアンとパスティエンヌ”という題でオペラ化され、メスメルをモデルとした人物も登場していることからも当時のふたりの親密具合がうかがえるだろう。
メスメルと音楽の関わりでもうひとつ注目すべきなのがグラス・ハーモニカ(アルモニカ)の存在だ。
グラス・ハーモニカ
凧を用いた実験で雷が電気であることを証明した米国の学者、政治家のベンジャミン・フランクリン(1706-1790)がグラス・ハープから着想を得て1761年に発明されたグラス・ハーモニカ。
パガニーニをして「何たる天上的な音色」と評したその音色は欧州を中心にマリー・アントワネットまでも魅了したが、同時にその現世離れした音色によって神経症を引き起こすとの噂が広がる。さらにはグラス・ハーモニカ演奏会場で子供が死亡する事故まで発生し、「聴いたものは気が狂う呪われた楽器」とのレッテルを貼られ、各地で演奏禁止令が発令される事態にまで発展していった。
そんな折にメスメルは自らの動物磁気治療の一環としてグラス・ハーモニカ演奏を患者に聴かせるという違法治療を行っていたのだ。
モーツァルトとも親交の深い盲目のピアニスト、マリア・テレジア・フォン・パラディスがメスメルに治療を依頼したのがこの時期だった。メスメルの治療の結果彼女の視力は(驚くべきことに)一時的に回復するものの、真実は定かではないがグラス・ハーモニカの影響で精神に悪影響が発生したとされ治療は途中で中止。これがスキャンダル化しメスメルはウィーンを追放され、パラディスの視力はまた失われることとなる。
マリア・テレジア・フォン・パラディス
果たしてメスメルが治療に使用したグラス・ハーモニカは呪われた楽器なのか?現在の研究によるとこの楽器には人間の可聴範囲を超える音が多く奏でられていることが判明しており、一説ではその「人間には認知できない音」が良きにつれ悪しきにつれ何らかの作用を人間の深層心理にもたらすのではないかという考えもある。
ともあれメスメル自身晩年には「自分の動物磁気治療は精神疾患にのみ効果があった気がする」と述べていたように、18世紀の西洋医学的に判明し得ていない精神の領域をグラス・ハーモニカと共に催眠を用いて開拓したのがメスメルだった。
そしてメスメルによってスタートした催眠療法は19世紀になるとフロイトによって自由連想法に取って代わられることとなるが、20世紀にはメスメルとフロイトを統合したようなヒプノセラピーへとまた復活継承されていくこととなる。
]]>
■黄金の夜明け 神智学協会と霊性進化論
黄金の夜明け団が現代魔術に多大なる影響を及ぼしたように、現代スピリチュアリズムの礎を築いた団体が神智学協会である。
19世紀中盤の科学発達とキリスト教弱体化によって盛り上がりをみせたのがスピリチュアリズム(霊性主義)だったわけが、やがてそのスピリチュアリズムに1859年チャールズ・ダーウィン著”種の起源”による進化論をミクスチャーさせた霊性進化論を提唱した神智学協会。
この神秘主義思想団体は1875年ニューヨークで交霊会を催していたヘレナ・ペトロブナ・ブラバッツキー(通称ブラヴァッツキー夫人)が、その交霊会の資金的スポンサーでもあったアメリカ人弁護士にして奴隷解放運動家でもあったヘンリー・オルコット大佐たちとともに「宇宙を支配している法則についての知識を収集し普及させること」を目的に設立されたものだった。
ヘレナ・ペトロブナ・ブラバッツキー
カバラ、ネオプラトン主義、ヘルメス主義など古代宗教思想から着想を得た思想体系は黄金の夜明け団の教義も同様だったが、神智学協会はさらに仏教やヒンドゥー教など東洋の宗教思想も大々的に導入した。
古今東西あらゆる既存宗教の統合を目指す神智学協会は、人間には不可視とされる神々の英知を探求し、個人個人が至高の存在への進化を目指す霊性進化論をブチあげる。
スピリチュアリズムを進化論風に新しく解釈したものとも言える霊性進化論は「人間の生きる目的は、輪廻転生を通してより高度な霊的進化を果たすことにある」説を唱えた。この思想は時を越えて1960年代以降のニューエイジ運動の根幹となり、現在なおもスピリチュアル関連の思想に広く影響を及ぼし続けている。
神智学協会には様々な歴史上の人物が名を連ねた。初代インド首相ジャワハルラール・ネルーやマハトマ・ガンディー(神智学協会はインド独立にも影響を及ぼした)、黄金の夜明け団でも活躍する詩人のウィリアム・バトラー・イェイツ、作曲家のアレキサンドル・スクリャービン、抽象絵画のワシリー・カンディンスキー、ピエト・モンドリアン、後に人智学を唱えるルドルフ・シュタイナーなどが協会に集まり、(協会から分裂するかたちとなるが)ジッドゥ・クリシュナムルティを世に生み出した。
ジッドゥ・クリシュナムルティ
このように神智学協会、および霊性進化論は19世紀スピリチュアリズムを新たなるステージに推し進める功績を果たした。しかし一方では「霊性」と「進化」の概念は霊的レイシズムをも召喚することとなる。 "ヴェールを脱いだ花嫁”(1877)や”シークレット・ドクトリン”(1888)でブラヴァッツキー夫人に描かれた宇宙創造史思想やアトランティス神話は、ドイツ人言語学者マックス・ミュラーが提唱したアーリア神話説とねじれたミックスを生み出し、やがてアリオゾフィと呼ばれるオカルト運動体へと変貌を遂げていくこととなる。
]]>■黄金の夜明け 東方聖堂騎士団とアレイスター・クロウリー
1900年「ブライスロードの戦い」の失敗でマグレガー・メイザースとともに黄金の夜明け団を追放されたアレイスター・クロウリー。
しかし弱冠25歳というヤングパワーと実家の太さに支えられたクロウリーがこの程度の挫折でくじけるはずもなく、ほどなくネス湖湖畔に(のちにジミー・ペイジが購入することとなる)別荘をかまえ召喚魔術に没頭。さらには世界一周旅行、K2登頂、29歳で最初の妻ローズと結婚と精力あふれまくりの人生をばく進する。
1904年そのローズとの新婚旅行先であったエジプトのカイロにて魔術儀式を行った際に守護天使的存在であるアイワスと遭遇。クロウリーはアイワスの言葉を書き留め“法の書”を完成させる。この“法の書”はクロウリーが提唱するセレマ思想へと発展していくこととなる。
「汝の欲するところをなせ、それが法とならん」でおなじみのセレマだが、ざっくりとその思想をまとめると
このふたつの概念を思想化し、儀式魔術化することで来るべき時代にそなえようとするクロウリーはある意味早すぎたニューエイジャーとも呼べるかもしれない。
1907年クロウリーは“法の書”を聖典とする魔術結社「銀の星A∴A∴」を設立。「科学の方法、宗教の目的」をモットーに光と知識の探求を推し進める。
丁度そのころ、そんなクロウリーに興味を持ち接触を図る人物がいた。ドイツのフリーメイソン会員でタントラ・オカルティストのテオドール・ロイスである。
テオドール・ロイス
ロイスはオーストリアのメーソン会員であり化学者、実業家であったカール・ケルナーとともに1895年から1906年の間(詳細不明)に東洋のテンプル騎士団を目指した東方聖堂騎士団(Ordo Templi Orientis 以下OTO)を設立した人物であった。
OTOのシンボル
そもそもはメーソン的、薔薇十字団的な友愛結社としてスタートしたOTOだったが、なぜかクロウリーを気に入ったロイスはクロウリーをOTOに招き入れ1912年には英国とアイルランドのトップへと昇格させる。
どう考えてもこれでトラブルが発生しないわけはなく、1914年第一次世界大戦発生ころよりクロウリーはOTOの教義に自らのセレマ思想を大胆に導入し教団をクロウリー色に染め上げる。
さすがに様々な反発を受け一時はロイスとも険悪な関係となるも、ロイス自身が病に倒れ死去したことを利用し1923年OTOのトップである「団の外なる首領the Outer Head of the Order」に就任、クロウリーはOTOをその手中に収めることに成功した。
まさに順風満帆な魔術人生を送っているかにみえるクロウリーだが、このころの彼の世間の評判は最悪そのものだった。1920年シチリア島「セレマ僧院」事件(セックス、ドラッグ&魔術行為中に参加者が死亡)をきっかけにクロウリーの存在は堕落と退廃の見本とされ、イタリアやフランスからの国外退去処分、母国英国からも入国拒否(これはのちのサイキックTVのジェネシス・P・オリッジに受け継がれる)という憂き目にあう。
1930年にはドイツに活動拠点を移しOTO活動とセレマ思想伝道に力を注ぐも金にはならず、実家の財産も食いつぶしてしまう。さらには1933年ナチス政権が樹立され頼みの綱のOTO活動も困難化、1939年の第二次大戦勃発に至ってはOTOそのものが壊滅状態に陥り、失意のまま1947年イギリスの片田舎でひっそりと72歳の生涯を閉じた。クロウリーの魔術が復活するのは1960年代サイケデリック革命以降となる。
クロウリー亡きあとのOTOは唯一カルフォルニアにあったアガベー・ロッジNo.2だけが生き残ったという。ここもほとんど機能不全状態が長らく続いたが1969年グラディー・マクマートリーにより復活を果たす。
その後OTOはカルフォルニア州で法人化を認められるなど宗教団体として活動を継続。1985年にはサイキックTV一派としても知られるウィリアム・ブリーズがカリフに就任するなど、エソテリックな文化運動と密接にかかわりながらOTOは現在も活動を継続している。
ウィリアム・ブリーズ
]]>■黄金の夜明け その思想の根源 その2
◇薔薇十字団
フィチーノを筆頭とするプラトン・アカデミーによりキリスト教以前の知識に光が当たりはじめたルネサンス期の15世紀を経て、17世紀にはヨーロッパにて薔薇十字団という秘密結社の存在がクローズアップされるようになる。
ことの発端は17世紀初頭、神聖ローマ帝国(ドイツ)にて出回った怪文書“全世界の普遍的かつ総体的改革”“友愛団の名声”“友愛団の信条”から始まる。
作者不明のこの怪文書には不老不死や錬金術といった古代の英知を探求する秘密組織としての薔薇十字団の存在や、組織の創始者とされるクリスチャン・ローゼンクロイツなる人物のミステリアスな生涯が記されていたという。
クリスチャン・ローゼンクロイツ
また当時の宗教改革運動にも呼応する内容となっており、ローマ・カトリック教皇制とハプスブルク皇帝家支配打倒と世界改革をオルグするものでもあった。事実これら怪文書が出回ってからわずか4年ほどの1618年からヨーロッパを震撼させる宗教戦争「30年戦争」が勃発していることから初期薔薇十字運動には政治的意図も多分に含まれていたと考えられる。
このように半ばフィクション上の存在として混迷の時代に立ち現れた薔薇十字団であったが、薔薇(錬金術の象徴、自然魔術)と十字(キリスト教)の結合により腐敗した世界を改革へと導くイメージとビジョンはフィクションの世界を飛び越え、英国のジョン・ディー、ロバート・フラッド、ドイツのライプニッツといった思想家たちにより現実世界で展開されていくこととなる。
◇スピリチュアル思想の台頭
時は巡り19世紀になると科学の発展に伴うキリスト教勢力の弱体化に伴い民衆の間でスピリチュアル思想が台頭。
SPRのシンボル
1882年に英国ケンブリッジ大学にてにて心霊現象研究協会(SPR)が発足される。哲学者・論理学者ヘンリー・シジウィ ックを初代会長にスピリチュアリズムの真相を科学的に解明しようとする組織であり、これを受けて1885年には米国でも米国心霊現象研究協会(ASPR)が発足された(初代会長は心理学者スタンレー・ホール)。
この協会の支持者には詩人・古典研究者フレデリック・マイヤーズ、物理学者ウィリアム・フレッチャー・バレット、イングランド国教会牧師にして霊媒師でもあるウィリアム・ステイントン・モーセス、生物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、近代超心理学の父ジョゼフ・バンクス・ライン、精神医学・心理学者カール・グスタフ・ユングから、詩人アルフレッド・テニスン、「不思議の国のアリス」作者ルイス・キャロル、「ハックルベリー・フィンの冒険」作者マーク・トウェイン、「シャーロック・ホームズ」作者アーサー・コナン・ドイルなど、欧米知識階級のスーパースターたちが列挙。
協会はポルターガイスト、エクトプラズム、テレパシー、サイコメトリー、テレキネシスなどといった超常現象概念を産み出し、その活動は創設から約30年の間最も盛んであったという。しかし霊現象の科学的解明は、やがて霊現象のトリック暴きへと移行していき、結果コナン・ドイルを筆頭としたスピリチュアリズム肯定派の大量離脱を招いてしまう。
◇薔薇十字団の復活
エリファス・レヴィ
そんな霊性主義の時代を背景として薔薇十字団もまた19世紀には復活の狼煙をあげることとなる。
著作”高等魔術の教理と儀式”(1856)、”秘教哲学入門”(1860)という19世紀魔術ルネサンスのバイブルを世に送り出したフランスのロマン派詩人であり隠秘学思想家のエリファス・レヴィが1855年ごろにフランスで薔薇十字団(組織というよりはそのイメージといったほうが良いが)を再建。カバラ、ヘルメス主義、キリスト教神秘主義などをまとめあげたその思想と哲学は現代ヨーロッパ魔術の礎となったばかりでなく、ボードレールやランボー、マラルメ、ブルトンといった詩人たちにも多大なる影響を及ぼした。
そのレヴィから影響を受けたオカルティスト、スタニスラフ・ド・ゲータ伯爵がジョゼファン・ペラダンと共に「薔薇十字カバラ教団」を設立したのが1888年。「薔薇十字カバラ教団」には作曲家エリック・サティやクロード・ドビュッシーが参加していた。
ジョゼファン・ペラダン
1890年になるとペラダンが独立し「カトリック薔薇十字聖杯神殿教団」を発足させる。
美術評論家でもあったペラダンは芸術運動を魔術的なものであり「神聖なる使命」と位置づけ宗教と芸術の融合を目指した「薔薇十字サロン展」を1892年に開催。モーリス・ドニなどの象徴主義絵画の展示、そして展覧会の夜会にはサティ作曲による”薔薇十字団のファンファーレ”が演奏された「薔薇十字サロン展」には約一か月の開催期間に22000人を超える来場者を集めたと記録されている。
エリック・サティ
そして海を渡ったイギリスではフリーメーソンが当時のスピリチュアリズム・ブームに影響されて1866年「英国薔薇十字協会」をロンドンに設立。その会員であったウィリアム・ウェストコット、マクレガー・メイザーズ、W・R・ウッドマンの三人が、よりハードコアなオカルト学を研究する秘密結社設立を目指し1888年「黄金の夜明け団」を結成し前述に至ることとなるのだった。
時系列が交差してしまったが、次回は東方聖堂騎士団(Ordo Templi Orientis)についてまとめてみる予定。
]]>ヘルメス・トリスメギストス
■黄金の夜明け その思想の根源
19世紀末のロンドンで近代魔術結社の礎を築くもあまりにも人間くさい権力闘争の果てに崩壊と分裂の道へと追いやられた黄金の夜明け団。
しかし彼らの(西洋オカルティズムの根幹である)儀式魔術に対するリスペクト、そしてカバラをはじめとする西洋的秘儀の再発見作業は東方聖堂騎士団OTOや立方石教団OCSなど後の秘密結社に継承されていった。
ここではそんな黄金の夜明け団による神秘主義思想のルーツを探っていきたい。
◇ヘルメス主義
ヘルメス主義とはヘレニズム時代(紀元前334-紀元前30)古代オリエント文化とギリシア文化が融合したギリシア風文化を背景にヘルメス・トリスメギストスなる神話的人物がとりまとめたとされる教えを元に、それを解読、実践しようとする神秘主義的な哲学、思想、宗教的思想の総称とされている。
エメラルド・タブレットでもおなじみのヘルメス・トリスメギストスは錬金術の始祖ともされ、錬金術のほかにも占星術、神智学、自然哲学などがヘルメス主義では取り扱われる。
3世紀に入るとエジプトにてグノーシス主義、そして新プラトン主義、ピタゴラス思想などをミックスさせたヘルメス文書が作成され、11世紀には東ローマ帝国にて「ヘルメス選集」がギリシア語で完成。
中世西ヨーロッパでは全く知られていなかったヘルメス文書だったが、ルナッサンス期の15世紀になると古代ギリシア哲学の訳者だったイタリアのマルシリオ・フィチーノがヘルメス文書をラテン語に翻訳。
マルシリオ・フィチーノ
これを当時のプラトン・アカデミー(フィチーノを中心としたプラトン哲学を学ぶ人文主義者たちの私的サークル)が中心となりキリスト教以前の古代の知識として喧伝した結果、スイスの医師にして錬金術師のパラケルススやドイツ哲学者ライプニッツなどに影響を及ぼした。
パラケルスス
次回は黄金の夜明け団に影響を及ぼした薔薇十字団についてまとめてみたい。
]]>ハードコア現代魔術
2023年8/4にDOMMUNEで磐樹炙弦さんと行ったトークイベント“ハードコア現代魔術”。大変ありがたいことに好評をいただき、その続編が近々予定されているので当ブログで磐樹さんから受け取ったコンテンツをもとに自分なりの準備&予習をつらつらとしていきたいと思う。
コンテンツに関しては以下の通り
「古代幻想」「黄金の夜明け」「性魔術」「カリスマと物語」「自我と眩暈」「眩暈のアカデミア」「身体のハードコア」「未来の野蛮」
なかなかにどうすんだよコレ、なタイトルが並んでいるが学術的な説明部分は磐樹さんにブン投げる気マンマンなので細かいことは気にせず進めていこう。
「古代幻想」に関しては8/4にほぼ話したのでここでは「黄金の夜明け」からスタートさせる。
■黄金の夜明け
黄金の夜明け団Hermetic Order of Golden Dawnは1888年3月1日、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザース、ウィリアム・ロバート・ウッドマンにより結成される。
マグレガー・メイザース
そもそもはフリーメイソン系統、英国薔薇十字団から派生した黄金の夜明け団。そのバックにはドイツに「秘密の首領」であるシュプレンゲルなる女性魔術師の存在があったとされ、団の運営はシュプンゲルの指示によるものという設定だったが正直話としては眉唾もの感は否めない。
それでも黄金の夜明け団は当時の英国エリート層を中心に絶大な支持を集め、初期参入者にはノーベル文学賞で有名な哲学者ベルクソンの妹であるミナ・ベルクソン(彼女はのちにメイザースと結婚する)、オスカー・ワイルド夫人のコンスタンス、女優フロレンス・ファー、ノーベル省詩人ウィリアム・バトラー・イエイツなどそうそうたるメンツを迎え入れ、1890年にはその構成員の数は100名以上にのぼった。
フロレンス・ファー
ウイリアム・バトラー・イエイツ
しかし1891年になるとどういうわけか詳細は不明だが団のトップだったウェストコットが「秘密の首領であるシュプレンゲルとの連絡が取れなくなった」と発表。そして同年創始者のひとりウッドマンが死去。
このころから団の実権をメイザースが握るようになり、メイザースは勝手にパリに移住したあげくその移住先にて「実はシュプレンゲルに代わって新たなる秘密の首領とパリでコンタクトとれました。今後の団の運営はこの新しい首領の指示のもと行われます」宣言をリリース。どう考えても団の実権を確実に握るための虚偽にしか思えないが、これにより団の運営はメイザースが掌握。
さらには元トップのウェストコットが勤務先(彼はロンドン警察の検死官だった)に魔術結社とのつながりがバレてしまい彼は団を去ることとなってしまう。これはメイザースによる策略との説もある。
当然こんな運営方法で団の結束がまとまるはずもなく、フロレンス・ファー率いるロンドン側とパリ在住のメイザース側との軋轢は深刻化していき、やがて分裂することとなるがその決定打となったのが若き日のアレイスター・クロウリーの存在であった。
アレイスター・クロウリー
当時23歳だったクロウリーはメイザース派閥に属しており、かつ問題行動ばかりおこしていた。ロンドン側トップのファーはもちろん、イエイツにも「神秘主義結社は少年院ではない」と苦言を呈されるほどに嫌われまくり(これには詩人を目指していたクロウリーがイエイツに対して対抗意識むき出しにしていたのが原因との説あり)、やがてクロウリーのアデプト昇進をめぐって対立が激化。
このころからどういう精神状態かは不明だがメイザースはかつての団のトップであったウェストコットの復権を極端に恐れるようになり、あろうことか「初代秘密の首領とされたシュプレンゲルの存在はウェストコットによる捏造だったんです」という団の根幹を揺るがすちゃぶ台返し宣言を発表。
1900年愛弟子クロウリーをロンドン側拠点イシス・ウラニア神殿の保管庫に送り付け、無理やり重要文書や儀式道具を押収しようとするもすったもんだの挙句失敗。「ブライスロードの戦い」と呼ばれたこの事件を経てメイザースとクロウリーは団を追放されることとなる。
追放されたメイザースにさらなる悲劇が襲い掛かる。失意の彼のもとに「元気だせ、実は私こそがシュプレンゲルである」と名乗るマダム・ホロスとその夫が接近。ホロスはむろんシュプレンゲルではなく単なる詐欺師なのだが、なぜか信じきったメイザースはうかつにもこの夫婦に団の秘伝書を渡してしまう。
秘伝書をゲットしたホロス夫妻は黄金の夜明け団をネタにしたThe Order of Theocratic Unityなるインチキ団体を設立。神秘主義とはかけはなれた世俗主義的酒池肉林の限りをつくすも1901年に悪行がバレて少女暴行、金品詐欺などの容疑で逮捕。この事件が大スキャンダルとなり黄金の夜明け団のイメージは最悪のものと化した。
このようなゴタゴタが続き組織そのものも崩壊する黄金の夜明け団だったが、その血統は途絶えることなく「A∴O∴」「暁の星」「聖黄金の夜明け」の三派に分裂し、現在に至るまで神秘主義思想に影響力を及ぼし続けているのだった。
次回はそんな黄金の夜明け団の神秘主義思想のルーツを探っていきたいと思う。
]]>
80年代のペレストロイカから91年ソ連崩壊を経て、なんの準備体操もないままに資本主義システムに頭から飛び込んだロシア。国のGDPはどん底まで落ちハイパーインフレ率は2600%に上昇、100万人の金持ちと1億5千万人の貧者を生み出したといわれ、80年代と90年代では比較してロシアの男性平均寿命は10年以上縮んだ。
街では防弾使用のベンツやBMWに乗った新興マフィアがアフガン帰りの殺し屋たちを従え闊歩し、1年間に殺されるロシア銀行家の数は50名以上に及んだ。
オリガルヒのような一部の勝ち組以外の人々にとってロシアの欧米化は悪夢でしかなかった。グラスノスチによって自分たちの歴史は(うすうす気づいていたとはいえ)嘘つきで人でなしの歴史だったことも暴露された。ソ連時代は貧しくて不自由でも「それでも自分たちには西側の連中にはない魂がある」ことが支えだったのにすべてが否定され、資本主義に「この田舎モンが」ツバを吐きかけられながらも尻尾を振るしかない人生に転落したのだ。
(余談だがこの時期東ドイツから帰還した元KGBのプーチンは白タクで糊口をしのぐしかなかった)
このような社会状況下において反抗心あふれる若者たち、そしてカウンター・カルチャーはどこへ向かうのだろうか?
「マルクシズムは消えた。放り出された。後にはがらんどうの空き地だけが残った。空白を埋めるのはナショナリズムか超ナショナリズムしかなかった」チャールズ・クローヴァー著“ユーラシアニズム”より
エドワルド・リモノフとアレキサンドル・ドゥーギンが設立した国家ボリシェヴィキ党(ナツボル)は行き場の無い若者たち・・・・・その多くは部屋の壁にキュアーのポスターを貼って一日中部屋で飲酒しているような社会不適合者たちの受け皿となった。
真面目な政治活動家や団体からみたら馬鹿げた集まりにしか見えなかったかもしれないが、
政治運動とアートを連結させたナツボルの存在は90年代ロシアのカウンター・カルチャーを刹那的に作り上げていた。
西側とは何かが決定的に異なるロシアのカウンター・カルチャー。その鍵をにぎるのはナツボルなのだがまだまだ全容はつかめていないままだ。明日のイベント”あなたの聴かない世界RED”でフリンジカルチャー研究家、宇田川岳夫さんとともに考察していこうと思う。
]]>