カレント93 / (Hey Ho) The Noddy (Oh)
ストロベリー・スウィッチブレイドのローズ・マクドウォールとフレヤ・アスウィンの合唱がドリーミー!1988年作品”Swastikas For Noddy”より
1980年代中盤、英国で隆盛したインダストリアル・ペイガン運動のひとつの象徴として機能していた場所がエンクレーヴ・エグゼクティブである。ロンドンはタフネル・パークに存在したこのフラットはもともとケイオス経由の新世代ルーン・カルト、フレヤ・アスウィンが借りていたものであった。
アスウィンは1949年オランダはザーンダムで生まれる。彼女は4歳の頃には既にスピリチュアル的目覚めを自覚するが、家庭の事情で19歳まで読書力を除き正式な教育を受けることはなかった。彼女は自らのシャーマン性を発展させるため地元のスピリチュアル・グループに参加し、星占術、カバラ、セレマ、魔女術などを習得。さらに彼女は西洋オカルティズムをより深く学ぶためにロンドンに移り、ケイオス・マジック結社IOTや、アレックス・サンダース(注1)経由のウィッカ運動と合流。1986年最初の著作”イグドラジルの葉”執筆作業の傍ら、自らのオカルト・コミュニティ運動を開する。その舞台となったのがエンクレーヴ・エグゼクティブのフラットであった。
やがてこのフラットにはカレント93のデヴィッド・チベットを筆頭としたロンドン・インダストリアル・ミュージック界隈の連中がたむろするようになり、怪しげなサロンを形成していく。チベットのほかにはダグラス・ピアーズ(デス・イン・ジューン)、ローズ・マクドウォール(元ストロベリー・スウィッチブレイド)、ヒルマー・オーン・ヒルマーソン(元サイキックTV)、スティーブン・ステイプルトン(ナース・ウィズ・ウーンド)、イアン・リード(ファイヤー+アイス)、ジョン・バランス(コイル)、トニー・ウェイクフォード(元デス・イン・ジューン、ソル・インヴィクタス)、パトリック・リーガス(元デス・イン・ジューン、シックスス・コム)といった面々が集い、アスウィンを中心としながらエソテリック・カルチャーを共有していく。
コミューンにも似た共同生活を通してケイオス・マジックとドラッグ行動主義、アート制作が渾然一体となった狂騒の蜜月期間は約1年ほど続いたという。この濃密な時間は以降の彼らの作品や思想、人間関係に大きな影響を及ぼすこととなる。
特にアスウィンのフラットの一室を無理矢理自分の部屋にまでしてしまったデヴィッド・チベットののめり込み方は尋常ではなかった。ある日フラットで大量のドラッグをキメたチベットが屋根に上ると、そのてっぺんで十字架に貼り付けにされた「おもちゃのノディ」(注2)のイメージを受信。この幻影を啓示と受け止めたチベットは大量のノディ・グツズをかたっぱしから買い集めフラットの自室に設置するようになる。この啓示と、同時期に培われたチベットのトラッド・ミュージック趣味が結晶したのがカレント93の1988年大傑作アルバム”Swastikas For Noddy”であり、この作品にはアスウィンもヴォーカルで参加している。
それまでのインダストリアル・ミュージック路線から決別を宣言するような”Swastikas For Noddy”にて伝承としてのフォーク路線を確立したカレント93はまたこの頃より傾倒していたアレイスター・クロウリー主義から距離を取りはじめる。これにはアスウィンのノルディック・イデオロギーやルーン伝統回帰、異教主義の影響が大きいと推測されるが、そのアスウィンの思想に影響を及ぼしたのは元サイキックTVのヒルマー・オーン・ヒルマーソンであった。
現在アイスランドのペイガン組織、アサトル協会のスポークスマンを務めるヒルマーソンは当時のフラットを訪れた人々のなかでアスウィンが唯一オカルティストとして尊敬していた人物であり、この頃よりOTOとアサトルを繋ぐ存在であった。ヒルマーソンはこの時期オカルト繋がり故か、カレント93やコイルといったインダストリアル第二世代との仕事が目立っている。
エンクレーヴ・エグゼクティブ関連でいちはやくルーン魔術を実践していたのがデス・イン・ジューン(以下DIJ)のオリジナル・メンバー、トニー・ウエイクフォードだ。彼はDIJ在籍時代よりルーンへの関心を寄せていたが、イギリス国民戦線との個人的な繋がりが問題化(注3)し1980年代半ば脱退。その後ドラッグとアルコールに溺れ裏社会の準構成員的生活を送るも、丁度この時期エンクレーヴ・エグゼクティブに出入りするようになり再び自らの新グループ、ソル・インヴィクタスを始動、音楽活動を再開させた。ある意味オカルティズムが彼の更正のきっかけとなったともいえる貴重な例だろう。
またDIJといえばこれまたオリジナル・メンバーだったパトリック・リーガスはシックスス・コムとしてフレヤ・アスウィンとの音楽的合体を果たす。北欧神話とエッダ、そしてゴシックなインダストリアル・サウンドがかもし出す儀式世界は魔術と音楽の関連性を際立たせている。シックスス・コムとアスウィンのこのユニットは”Songs Of Yggdrasil”を筆頭とする作品発表のほか、独ライプツィヒで毎年開催される世界的ゴシック・イベント「ゴシック・トレフェン」にも出演するなどライヴ活動も行っていた。
このような1980年代中盤から後半にかけてのエソテリック・アンダーグラウンドの繋がりは1990年代に突入すると、彼らのビジネス面を統括していたディストリビューター”ワールドサーペント”の崩壊と、それに伴う人間関係の軋轢(注4)が大きく影響しそれぞれがバラバラの道を歩むこととなる。それでも彼らがこの時代の混沌から提唱したネオ・ペイガニズムや北欧神話といったエソテリック・カルチャーとアートの融合は、1993年EU統合への反発もともなってネオ・フォークやマーシャル・インダストリアル、ブラック・メタルなど不穏なジャンルへと継承されていくこととなる。
(注1)アレックス・サンダース 1926-1988
1960年代英国オカルト・ブームの立役者にして自称「魔女の王」。ジェラルド・ガードナー以降の代表的魔女宗組織者でありアレクサンドリア派創始者。とかく山師的イメージも強いが、コイルのジョン・バランスが子供時代に弟子入り志願の手紙をサンダースに送ったところ「もちろん大歓迎だよ。ただし君が大人になったらね」と返事を返すなど常識人としての一面も。
(注2)おもちゃのノディ
英国児童文学の有名なキャラクター。日本でも「おもちゃの国のノディ」というタイトルで人形劇が放映された。当時チベットはお気に入りのノディ人形を常に持ち歩いては人形の帽子部分をしゃぶってボロボロにしていたヤバいエピソードも有。
(注3)イギリス国民戦線との個人的な繋がりが問題化
トニー・ウェイクフォードはこの時期を振り返り「人生最悪の選択だった」と振り返って後悔している。ただし後悔の理由は国民戦線の連中が「所詮は大英帝国主義にすぎない」からであって、よりいにしえを目指す彼とは志が異なるかららしい。
(注4)”ワールドサーペント”の崩壊と、それに伴う人間関係の軋轢
サマー・オブ・デスなファミリーを形成していた彼らだったが、1980年代後半にスティーヴン・ステイプルトンがアイルランドに移住。この頃より彼らのそれぞれの活動をビジネス的に統括すべきという案が浮上。これを受け、当時ロンドンで営業していたレコード店”ヴィニール・エクスペリエンス”(ここには日本からスーパーナチュラル・オーガニゼーションとヴィニール・ジャパンも買い付けに来ていたとの証言も有)が新会社”ワールド・サーペント”を1990年に設立。しかしホワイトハウスとNWWの共同作品”150マーダーロス・パッションズ”の再発をめぐるトラブル(当時マスター・テープを持っていたウィリアム・ベネットがスペインのバルセロナで暮らしていたため連絡が取れず、結果NWWとヴィニール・エクスペリエンス側が勝手に盤おこし&マスタリングした作品が発表された。そのことでホワイトハウスとNWWの関係は悪化する)発生など幸先からつまずきを見せる。それでもワールド・サーペントは運営を継続していくも、運営にあたりセールス的に売上が乏しいデス・イン・ジューンが問題化(彼らはナチス的イメージが原因でドイツなど発売禁止の国もあった)。そんなデス・イン・ジューンに配給話を持ちかけたのがジェノサイド・オーガンが運営するテスコ・オーガニゼーションで、デス・イン・ジューンは既にワールド・サーペントに対し不信感を募らせていたこともあり、契約を無視してテスコ側に自らの作品を大量に流してしまう。これによりワールド・サーペントとデス・イン・ジューンは裁判で争うこととなるが、結果として双方裁判資金が尽きて共倒れとなり、ワールド・サーペントは崩壊、ファミリーもバラバラとなってしまった。